冷
た
い
童
話
ACT.4
泪に泣かれたその夜、氷菜はそっと村を抜け出した。 夜に森の中を歩くのは、初めてのことだったが氷菜の足は確実にある場所を目指していた。 ハヤテの所へ。 人の『死の影』を見ることができる泪は言っていた。彼には死が迫っている−−と。 彼は、死ぬ。 『死にたくない』と言っていた彼は、遠からず死ぬことになる。私の前から消える、この世界からいなくなる。 「そんな−−そんなの、駄目よ」 氷菜は呟きながら雪の中を進んだ。 やがて、ハヤテのいるはずの岩場へとたどり着く。雪明かりのおかげで、人影が見えた。−−ハヤテ、だ。 昼間の時のように、雪の中、彼はただ立っていた。 氷菜はハヤテに駆け寄った。ハヤテの方も、氷菜には気付いていたらしく、こちらをじっと見ていた。 「ハヤテ−−」 氷菜はハァハァと息を吐きながら、ハヤテの目の前に立った。 「−−氷菜、どうしてこんな時間に……」 「他の氷女に、知られてしまったの。……あなたのことを」 ハヤテは別に驚きもせず、淡々と告げた。 「では、もうここにはいられないな」 諦めたように笑った彼の口の端に、まだ鮮やかな赤い血の跡を見つけた。 「−−ハヤテ!また血を吐いたのね」 それに触れようとした氷菜の手を、ハヤテはすかさず握りしめる。 「−−あっ」 「お前は何で、こんなことをする。−−同情なのか?だったら、やめろ」 ハヤテが赤い目で見下ろした。一瞬氷菜は、その視線から逃げ出して、手さえ振り解こうとしたが、きつく握りしめられハヤテは放そうとしない。 「……ハヤテ。同情じゃないわ−−。どうして、そんなこと言うの?あなたは」 氷菜は熱い手に握りしめられ、震える体を隠しながらゆっくり視線を戻す。 じっと、大きな緑の目で見上げ返した。 「どうして−−」 「お前が、優しいからだ」 静かに、だがきっぱりとそう言ったハヤテを、氷菜は驚いて見つめ−−そして、笑った。 「−−私が、優しいのは、好きなモノにだけよ。私、あなたは好きだわ」 「−−氷菜……」 「あなたは、嫌っているようだけど……私、あなたの白い髪も、好きよ」 氷菜は握られていない方の手を伸ばし、細い雪のように白い指で、 同じくらい真っ白な髪に触れた。 微笑む氷菜を、ハヤテはたまらず抱き締めた。 「氷菜……氷菜−−」 耳元で何度も名前を呼ばれ、抱き締められたが以前のように、逃げようとはしなかった。 ただ、氷菜にはその腕が1本であることが、酷く哀しかった。 ハヤテの胸に抱き寄せられたまま、氷菜は浅くまどろんでいた。冷たい世界で暮らしていた氷菜には、ほとんど−−いや、全く触れたことのない熱さだった。 彼の炎の妖気の所為か、それとも他の原因があるのか、氷菜は熱く火照る白い体をハヤテに預けきっていた。 自分の髪を梳いている指はハヤテのもので、彼の左腕だ。右腕は黒く変色し、皮膚がカサカサに乾いていた。右肩も、黒っぽくなっている。 氷菜は目を開けて、彼を死に追いやろうとしている『呪い』を見た。 彼は−−死ぬ。 泪は言った。彼には死の影がまとわりついていると。 氷菜の力ではどうにもならなかった。治癒能力は、氷女の中でも5本の指に入るはずだ。それでも彼の病は治らない。 もはや、病ではなく『呪い』だった。 氷菜は彼を死なせたくなかった。せめて−−せめて、何かほんの少しだけでも『彼』に生きていて欲しかったのだ。 だから氷菜はハヤテに、抱かれた。 きっと、自分はハヤテの子を身ごもった。−−私には分かる。 氷菜は体の奥から、幸福感が込み上げてくるような、そんな浮遊感に捕われていた。 氷女の産む男児は、全て父親の分身だという。ならば、氷菜の体内に宿ったものは、ハヤテの分身だ。 氷菜がぼんやりと、物思いに耽っていると、髪を梳いていたハヤテの手が別の動きを見せ、氷菜の細い首筋に触れた。 「−−これも『氷泪石』か?」 そう言って手に取ったのは、氷菜が肌身離さず身に付けていた氷泪石のペンダントだった。 「ええ−−そうよ」 「お前が前、オレに見せてくれた石とは、少し色が違うような気がするが?」 ハヤテが言っている石とは、氷菜が流した涙からできた石だ。だが、首にかけているこの石は−−。 「これは、私の母が造った石なのよ。−−私達氷女は、涙から宝石を造ることができるの」 「涙から?」 「ええ、これはね−−母が、私を産んだ時、流した涙なの。氷女は皆持っているわ。母親が、自分の子に1番最初に与えるものなのよ」 氷菜は自分の母が、どんな人だったのかは知らない。死んだとしか聞かされていないからだった。だから、この石は母の形見でもあった。 「……これは、涙からできるのか。−−まるで、月のような美しさだ。地上から見える、白い月のようだな」 『月』と聞いて、氷菜は首を傾げた。が、すぐに思い出した。 「私、1度だけ『月』を見たことがあるわ−−。雲の切れ間から、白く光る大きな『月』を。この石より、ずっと綺麗だったわ。地上の人は、いつもあんな綺麗な月を見ることができるのに−−どうして、氷泪石なんて欲しがるのかしら?」 氷菜の緑の瞳に見上げられ、ハヤテは石から手を離し、彼女の頭を抱き寄せる。 「それは−−な。氷菜、皆『月』を独占したいからだろう」 少し、照れながら言っているのが分かり、氷菜はおかしくてクスリと笑った。 体を起こすと、ハヤテの赤い瞳を覗き込みながら、白い髪に指を絡ませる。白く輝く髪は、まるで月の光のようだと思った。 自分も、この月を独占したがっていたのだと、氷菜はもう1度笑った。もう、自分の全てはハヤテのものだ。そして、彼の分身のもの。 命さえも彼のものであることが、嬉しかった。 自分が死んでしまうかもしれないことも、氷菜には彼を独占する為の、手段の1つだったのだ。 「−−そろそろ、帰るわ」 氷菜は、自分の体にかけていただけの白い着物を身に付け始めた。 ハヤテは、つまらなさそうにそれを見ていたが、ふと声をかけた。申し分けなさそうに声を低めた。 「すまん−−な、服に少し……血が付いている」 氷菜は言われて初めて気がついた。着物の裾の方に、ほんの少しだが、赤い血の染みが付いていた。 外へ出ると、まだ薄暗く夜は明けきっていなかった。体の芯にだるい痛みを覚えたまま、氷菜は自分の幼なじみのことを思った。 泪は、自分が村を抜け出して、男の所へ行ったことに気付いているのかもしれない。 村へ戻ったら真っ先に、泪に謝っておかなくては。 泪を納得させたら、今度は−−彼に本当のことを言わねばならないだろう。謝らなくてはいけない。 氷女は『男』の子供を産むと、死ぬということを。 『死』を恐れる彼に、そのことを告げられなかったことを、謝らなくては−−。 氷菜が村へ戻ろうと歩き始めると、後ろからハヤテが声をかけてきた。 「氷菜!−−オレは、この国を出ることにする」 「−−え?」 慌てて振り向くと、ハヤテは氷菜の視線を受け止めたまま、もう1度繰り返した。 「オレは、この国を出る。−−だが、必ず戻って来る。お前を迎えに。こんな腕1本だけでは、地上じゃオレはお前を守れないだろうから、この腕を−−」 ハヤテは左手で、右腕をさすった。 「この腕を、どうにかして、お前を守れるような強い腕にしてくるから、それまで待って……」 「ねぇ!ハヤテ……どういうことなの?それは−−」 ハヤテが、氷菜を『守る』と言ったことに、彼女の胸は知らず踊ったが、腕を何とかするとは、どういう意味なのだろう。 彼の『呪い』は、腕1本だけではなくなっているというのに。 不安さを隠し切れない氷菜の瞳を覗き込み、ハヤテは心配するなと、その肩に手をかけた。 「オレは−−この腕を、切り落としてくる。そして、機械の腕でも何でも代わりに付けてくるさ」 「う……腕を、切るの?」 「ああ」 ハヤテの答えは簡潔なもので、それは彼の決心の堅さを表しているようでもあった。 「え?でも−−あなたは、腕を切りたくなかったんでしょう?お母さまからもらった体を−−」 「ああ−−だが、今ではオレは母よりも、お前の方が大切だ。そう気付いた。−−一族よりもな」 「一族?」 「オレが村を出る時、オレの父は『必ず帰って来て、一族の女と子供を造れ』と言ったんだ。だが、オレの一族は同種の間でしか、一族の子が作れない。そして女は−−同種の子を出産する時、死んでしまうんだ」 氷菜は、ハヤテの言葉を疑った。 「母も、オレと姉を産んで、すぐに死んだ。オレの姉もな−−子を産んで死んだんだ。オレは、あのまま自分の村にいたら、村の女と子を作っていたかもしれない。だがオレは、自分の好きになった女が、死ぬのを見ているのが、嫌だったんだ。だから、村を出て旅をしていた。一族以外の女だったら、オレの子を産んでも何ともないはずなんだ。 だから−−その……」 ハヤテは少しためらいながらも、氷菜の体を抱き寄せて、こう言った。 「オレが戻って来るまで、待っていて欲しい。氷菜−−オレはお前に、オレの子を産んで欲しいんだ−−」 氷菜は、もう何も言えなかった。 彼は『好きな女』が死ぬのは、見ていられないと言った。だから、 外へ出て他種族の女を捜していたのだと。 氷菜に、自分の子を産んで欲しいと−−。 氷菜は嬉しかった。彼にこんなにも求められていることが、心から。だが逆に、泣き叫びたい衝動にも駆られていた。 氷女は『男』の子供を産むと……死んでしまうのだ。 何ということだろう! 死に行く彼の分身を、この世に残すことができる氷女である自分に、氷菜は喜んでいたというのに、彼が望んだものは、自分の子を産んでも死なない女だったのだ。 氷菜は、押さえていた喜びと、彼に対する罪悪感から、涙を流した。 両の瞳から零れ落ちる滴は、そのまま美しい宝石となった。 氷菜を抱き締めていたハヤテは、ころころと零れる石に気付き、体を離して氷菜の顔を覗きこんだ。 「ああ−−涙から、氷泪石ができるのか。……氷菜、もしかして、嫌なのか?」 氷菜は、瞳を閉じて首を振った。そして、逆にハヤテに抱きついた。 「そんなこと、ないわ。私、あなたを待っているわ。あなたの子を産んであげるわ。だから、早く私を迎えに来て……」 氷菜は、ハヤテに氷女の性質を教えなかった。わざわざ教えることも、ないだろうと思ったのだ。 自分は子を産んで死ぬのだし、彼もまた、病に冒されて死ぬのだから。『待っている』などという言葉は、嘘だ。 それでも氷菜は、緑の瞳から宝石を零しながら、精一杯微笑んで見せた。 「私−−あなたを愛しているわ。だから、あなたをずっと待ってる……」 ハヤテは、今日か明日にでも、この国を出るという。氷菜は、首にかけていた母の形見の氷泪石を外して、彼の首にかけた。 「−−氷菜?」 「預けるわ。また、ここへ帰って来るんでしょう?−−その時、返してもらうから」 氷菜は、自分は何て嘘を付いているのだろうと思うと、胸が苦しくなった。 だが今更、本当のことは言えなかった。 氷菜は夜の明け切らない村への道を歩き、まだ寝静まったままの村へと戻った。自分の部屋へ帰ると、やはり泪が起きて待っていた。 「どこへ−−いいえ、あの男の所へ行っていたのね?氷菜」 「−−泪」 氷菜は、泪にもう1度彼を見て欲しかった。泪の力−−『死の影』 を見る目で、まだ彼には黒い影がまとわり付いているかどうかを、確かめて欲しかったのだ。 「あの−−泪、お願いが……」 氷菜が言い切らない内に、泪がはっとして氷菜に詰め寄った。心なし、震えているようにも見えた。 「……氷菜……?」 「何、泪−−?」 泪の様子があまりにもおかしいので、氷菜は今言おうとしたことを、言い出せなかった。泪は、じっと氷菜を見つめたままだ。 「−−氷菜、あなた、何をして来たの?」 「え、何って」 「氷菜!あなたには、−−し、『死の影』が、見えているわ!何をして来たの?」 泪の様子がおかしかったのは、氷菜に見えるはずのないモノが見えていたからだった。が、そう言われた氷菜の方は、驚きはしなかった。ただ、泪に申しわけなくて、少し悲しいだけだった。 「そう、見えているのね。−−私にも」 あまりにも、氷菜が落ち着いているので、泪は逆に声を張り上げる。 「氷菜、あなた−−」 「私、彼の子を身ごもったんだわ。だから−−私も、死ぬのよ」 「氷菜!」 泪の声は、悲鳴に近かった。恐れていたことが、こんなにも早く訪れるなんて、昨日、氷菜に『もう会うな』と言ったばかりだというのに。 氷菜は、私の言うことを聞いてくれなかったんだわ。それどころか、今こんな状態にあることを予測していたかのように、こんなにも平然としているなんて。 「−−あなた、分かっているの?『男』の子供を身ごもるなんて、氷菜、あなたは死ぬのよ?」 「ええ−−分かっているわ。私−−彼の子を、産みたかったの」 氷菜は、予想通りの泪の反応に、おかしくなりながらも、やっと感情が体にも巡って来たのか−−その瞳から、涙を流した。 「私−−どうしても、彼の『何か』をこの世に残してあげたかったのよ。だって、泪が彼に『死の影』なんて、見てしまうんですもの−−」 泪は、氷菜の言葉に衝撃を受けた。それでは、まるで氷菜が『男』 の子を産もうとしたのは、泪の所為だと言うことではないか。だが、 氷菜は笑って言った。 「でもね、泪の所為なんかじゃないわ。私、その前から、彼の子供なら産んでもいいと思ったもの。−−泪の言葉は、きっかけに過ぎないわ」 「氷菜−−私には、分からないわ。どうして、そんなにも『男』なんかのことを−−。あなたは死んでしまうのよ、今からでも遅くないわ。その子を、殺しなさい!」 「嫌よ」 泪が、自分のことを思ってくれて、そう言っているのだということは、良く分かっていた。だが、こればかりは、聞けない。 「ごめんなさい……泪。私、どうしても彼の子が産みたいのよ。自分勝手な我儘だと、分かっているの……」 氷菜は目もとを拭って、泪を真っ直ぐに見つめた。泪の方も、今にも泣きそうな顔をしていたが、いたたまれなくなり先に目を逸らした。 「−−長に、このことを話すわ。……いいわね?」 泪は、長に氷菜を止めてもらおうと思ったのだ。最悪の場合、無理やりにでも氷菜が子を産む前に、その子を殺してしまおうと。 泪は、長の元へと向かった。こんな朝早く、何事かと思われるだろうが、氷菜がまたあの『男』の所へ行ってしまう前に、長に言っておかなければ。今は氷菜は部屋にいる。少し、眠ると言っていた。 今の内に、出来るだけ早くどうするか決めなければ−−。 館の奥の方、長が居る部屋があった。 泪が断りを入れ中へ入ると、長はまるで待っていたかのように、身仕度も全て整えて、椅子に座っていた。 「−−長、こんなに朝早く、申しわけありません。実は……」 「氷菜の、ことじゃな」 泪は目を見開き、何故それを−−と聞き返そうとした。 「−−わしは、目も衰え、耳も聞こえにくくなっているがな、その分この国のことなら、何でも感じることができるのだよ。−−氷菜が『男』と、会っていたというのだろう?気が付いたのは、つい昨日のことだが」 「知っていたというのですか?なら、氷菜が−−『男』の子を身ごもったことも−−ですか?」 長は、泪を手招きすると、すぐ側の椅子の座るように指示した。「さて、昔話でもしようかの。 −−昔、1人の氷女が、この国へやって来た『男』と出会って、どうやら好きになったらしい。その氷女は、その『男』に請われるままに氷泪石を与え、一緒にこの国を出て行こうとしたのだ。だが、『男』は氷女を連れては行かなかった。氷泪石が目当てだったのかもしれん。その氷女は、わしにこう言った。 −−一緒に行けないのなら、せめて『男』の子供が欲しかった−−とな。わしは、滅多なことを言うんじゃないと、嗜めたが−−その後すぐに、その氷女は子供を身ごもった。自分の子だった。だが、その氷女は体がもともと弱くてな、子を産む前に……死んでしまったのじゃ。最後まで、その氷女は言い続けていた。『一緒に行けないのなら、せめて『男』の子供が欲しかった』と。結局、子を産む前に死んでしまったが、わしは、死んだ氷女の腹を裂き−−氷女の赤子を取り出したのじゃ」 長は、1度そこで言葉を切った。泪の方へ視線をやると、あまり良く見えない目で、じっと見つめていた。 「その赤子が、氷菜じゃ」 「−−な!」 今聞いた話自体、泪にとっては初耳で、おそらく長以外は知らないことだろうと思われた。 そして、その氷女が氷菜の母親だなんて−−。 「−−死んだ女の腹から生まれた氷女を、誰も引き取ろうとしなかったのでな、わしが引き取った。氷菜の母と『男』のことは、わし以外知らぬことだったが、他の氷女は薄々気が付いておったのかもしれん。誰も、氷菜を引き取ろうとしなかったからの」 「では、どうして、氷菜のことに気が付いていながら−−彼女を止めようとしてくれなかったのですか?」 泪は、一通り話を聞くとすっと椅子から立ち上がった。その表情は、長を責めているようだ。 「氷菜は、『男』の子を身ごもってしまった!このままでは、氷菜は、死んでしまいます」 「そうかもしれんな−−氷女は、『男』の子を産むと死んでしまう。 そのことを知らぬ、氷菜ではあるまい。−−母の、死の間際の感情が、氷菜にそうした行動を取らせているのかもしれん。 そういった、氷女に有るまじき感情は、早々に断ち切ってしまわねば、ならぬ−−」 「そ、んな……長、もしかして、このまま氷菜には、子を産ませるおつもりですか?」 「氷菜が自分で決めたことじゃ。−−それに、子を途中で殺してしまうことは、氷女の精神状態に良くない。−−気が狂うかもしれんな−−」 長ならば、今の状態の氷菜をなんとかしてくれると思っていた。だが、このまま、『男』の子供を産ませた方がいいという。そうして、氷女から危険な感情を排除するため、氷菜の代で終わらせようというのか。 「……子供が生まれれば、それは『忌み子』として、この国から追放されることとなろう。それで、この件は、片が付く−−」 泪はふと気がついた。長の手が震えている−−。 長も、悲しいのだろうか?−−泪は、そう思いたかった。 氷菜の元へ帰る途中、泪は思惑が外れたことに気持ちが乱れたまま、1人歩いていた。 初めて聞いた、氷菜の母のこと。氷菜は、その母の願いの為だけに生まれてきたのだろうか? そう考えると、氷菜が可哀相になる。氷菜が今、こんなことになっているのは、氷菜自身の意思ではなくて、母が氷菜に与えた最後の感情だとしたら−−。 だから、泪はそう考えることを止めた。 氷菜は、氷菜自身の意思で、『男』の子を産む決心をしたのだ。あんなに強い目で、氷菜に見つめられたことは無かった。 せめて自分は最後まで、氷菜の味方でいようと−−泪はそう決めた。 その日、泪は氷菜に誘われるままに、氷菜の相手の元へと向かった。 氷菜が、1度ちゃんと紹介したいと言うのだ。 初めて間近で見た『男』は、遠くから見るより随分と背が高いと思った。黒い、長めの上着を着てはいたが、白い髪のせいか、この国にも合わなくはないわね、と氷菜に言った。 氷菜は男と話をしている時−−とても、嬉しそうだった。 「−−必ず、戻って来る」 男はそう言って、この国を出ていった。氷河の国のはずれの断崖から、飛び降りて−−。 こんな所から落ちるのか、と驚いたが、男が言うには落ちるのではなく−−飛んで行くのだという。 氷菜は全く、心配していないようだ。 微笑んで、男を見送った。 男の長い上着が、まるで黒い羽根のように広がって見え、泪は氷菜が以前、男のことを『黒い鳥』と例えていたことは、あながち検討外れではなかったと感じた。 −−男が、この国から消えた時、氷菜はそっと泪に聞いてきた。「ねえ−−泪、あの人にまだ、『死の影』が−−見えてる?」 氷菜はきっと、確認したいのだと思い、泪は答えてやった。真実を。 「−−ええ、見えてるわ。変わらないわ」 思いがけず、氷菜は嬉しそうに笑った。 「ふふ……良かった」 「何故?」 「−−私、彼にずっと待ってるって約束してしまったけど、私は子供を産んで死んでしまうもの。−−もし、彼が生き延びて……この国へやって来た時、私がいなかったら約束を破ってしまうことになるわ。良かった、私は嘘を付かずに済む。だって、彼はもう、ここへは帰って来ないんだもの」 氷菜には、『死』に対する恐怖心は無いようだった。泪には、それが救いになっていた。 例え、どんなことになろうとも、泣かれるよりは笑っていた方がいいに決まっている−−。 氷菜が『男』の子を身ごもっていることを知っているのは、泪と長だけだった。 氷女は、種の存続を第一に考える。 こんな天の城で、外界と触れずに生きているのは、それなりの理由があるのだ。 同胞が子を宿すことは、他の氷女から好意の目で受け止められた。 氷菜も例外ではない。 そのうち氷菜が宿したのが2人−−双子であるらしいということが分かると、周りの氷女達は口々に『おめでとう』と言うのだ。 ただ1人、氷女の長を除いて。 「−−氷菜の腹の子は、双子だそうじゃな?」 「ええ」 泪は答えた。 「双子です。−−2つの命を感じます」 薄暗い部屋で、長はまた1つ尋ねた。 「−−その子共らは『男児』か?」 「ええ」 泪は答えた。そして続けて言う。 「−−1人は」 長はカッと目を見開いた。よく見えない目で、泪を凝視する。 「……1人は、とな−−。では、いま1人は?」 「女の子です。長よ」 泪の答えは、長を愕然とさせた。 氷菜が産むのは、男児のみのはずだった。そして、その忌み子をこの国から追放すれば、氷女の中の危険な因子はなくなるはずだった。 そのことは長の思惑から大きく外れていた。 また、子供が生まれる。−−氷女にとって危険な感情を持つ子が。 「どうしたものか……」 長の呟きに、泪は当然のように申し出た。 「私が、その赤子を引き取ります。−−私が育てます」 泪は氷菜と約束をしていたのだ。 氷菜は、自分の中にいる子共が『男』だけでなく『女』−−氷女であることを知ると、酷く悲しんだ。 自分が死ぬことは覚悟していた。だが、その後氷女として生まれる娘を1人にしてしまうと。−−男児の方はおそらく、忌み子としてこの国から捨てられるだろうから。 緑の瞳から、幾つも幾つも涙を流す氷菜に、泪は優しくこう言ったのだ。 「氷菜、安心して−−その子は私が育てるわ」 「−−いいの?泪……あなたにお願いしても……」 泪は実は嬉しかったのだ。 子を産めば友人は死んでしまい、その子もこの国では育てられないと思うと、自分が1人取り残されるような気がしていたから。 だが、氷菜がもう1人、それも氷女−−氷菜の分身を残して逝ってくれれば、泪は寂しさを紛らわすことができるだろうと思った。 長は、氷菜の子を育てると言った泪に、諭すように言った。 「−−泪、その子が道を誤らぬよう、しっかり育てるのじゃぞ。氷菜の二の舞には、したくなかろう−−」 「ええ−−もちろんです」 その長の言葉に感謝しながら、泪は氷菜が言っていたことを思い出していた。 「−−ごめんなさい、泪。この子をお願いするわ。この子は私の分身だから−−」 「氷菜、それは違うわ。あなたはあなた、その子はその子なの。同じものではないのよ−−」 そう言いながら、泪は生まれてくる子を氷菜の代わりだと見ていた自分に気が付いた。 だがその子が、氷菜が母から受け継いでしまったように、氷菜の思いを受け継いでしまうことが−−泪は怖かった。 しかし、目の前にいる氷菜は嬉しそうだ。子供を残して逝ってしまうのは、やはり悲しく辛いことだが、氷菜は自分の望みを叶えることができるのだ。 愛しい人の『何か』をこの世に残したい−−という願いを。 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