冷
た
い
童
話
ACT.3
一夜が明けて、氷菜は彼の待つ岩屋へと向かっていた。 こんな朝早くにどこへ行くのかと、不思議に思う者もいたが、氷菜を良く知る者は特に気にしなかった。 長になるための教育を受けていた氷菜は、他の氷女が知ることもない外の知識を与えられていたため、好奇心が発達していた。泪の方は、外の世界に畏怖の念を覚えていたのだが、氷菜は逆だ。 より知ろうという気持ちが氷菜に、周りから見れば奇異な行動をとる者だという印象を与えることになってしまっていた。 氷菜は、ハヤテに会いたくてたまらなかった。 昨日、気が付いたことがある。 自分は、彼に見てもらいたがっている。彼に、自分が1番美しいと−−そう思って欲しがっているということに。 そのことに気が付くと、氷菜の気持ちは更に膨れ上がった。 彼に会いたい。彼と話がしたい。彼の傷付いた足を癒してあげたい。できれば、彼の呪われた腕も−−。 だが、それは氷菜には不可能なことだった。試みてはみたが、黒ずんでいる右腕は氷菜の持つ治癒能力を受け入れなかった。 ハヤテも氷菜を待っていた。 冷たい、氷の女。だがその気は限り無く暖かだった。炎の妖気を持っている自分が誰かに、暖められたような気になることが、ハヤテは不思議だった。 「−−立ってみて」 「あ?」 ハヤテは突然声をかけられて、はっとした。すぐ目の前に氷菜の顔があった。 氷菜はここへ来てすぐにハヤテの右足を癒し始め、今までずっと気を送ってくれていたのだ。 「もう、大分いいはずだわ。……立ってみてくれないかしら?」 「あ、ああ」 ハヤテは氷菜に促されるまま、手を付いて立ち上がる。氷菜はその様子を見上げながら微笑んでいた。 両の足でしっかりと立ち上がり、右足を動かしてみる。 トントンと足を地に蹴り付けたが、痛みはほとんど無くなっていた。 「ああ−−もう、痛みはない。氷菜、お前のおかげだ」 ハヤテは自分にここまでしてくれた氷女に礼を言った。だが、自分の足が治ったことを素直に喜べないでいた。 氷菜の方もそうだった。折角、自分の力で治療した彼の足がここまで回復しているのだから、もっと嬉しそうな顔をしても良いはずなのに。 一瞬、氷菜は治癒の為の力を送ることを、止めようかと思った。怪我が治れば、ハヤテはここを出て行くだろう。 一昨日、出て行けと言ったのは自分だったのに、今では−−行って欲しくはなかった。 だが、それは到底叶わぬことで、つい2日前に会ったばかりの彼が、今では何の用も無くなったこの国に留まることなど、有りえないのだから。 こうなっては、これ以上彼に対する未練が膨れ上がる前に、ハヤテに出て行って欲しかった。 氷河の国の掟−−男は、何人たりと足を踏み入れさせてはならないと。そのことは、長の教えを受け継いだ氷菜には、よく分かっていた。 「氷菜、お前のおかげだ」 ハヤテはもう1度、氷菜に礼を言った。氷菜は首を横に振る。 「−−いいえ、私がやりたくてしたことだから、あなたが礼を言うことはないわ。……それより、あなたの右腕は、私の力ではどうにもならないみたい。−−ごめんなさい」 「お前が謝ることはない、氷菜。−−本当は」 ハヤテは自分の右腕をさすりながら言う。 「いっそのこと、切ってしまえば良かったんだろうが……こんなになる前に」 そうすれば、この黒い病に脅えることはなかっただろうとハヤテは言うのだが、氷菜からすれば『気』の流れがおかしくなっているため、切り落としただけでは治りはしないのではないかと思っていた。 「1つだけ、聞いてもいいかしら?」 「何だ?」 「何故−−そんなになるまで、腕を切り落としてしまわなかったの? そうすれば−−」 今よりは、確実に寿命が延びたはず。 彼の命がこのままではあとわずかだ−−という恐れを抱かずに済んだというのに。 氷菜の問いに、ハヤテはあまり答えたくなさそうに見えた。が、しばらくして自分から口を開いた。 「−−この体は、母がくれたものだからな。できるだけ、そのまま持っていたい。実はこの髪も」 そう言いながら、自分の伸びた白い髪を摘んだ。 「以前は、黒かったんだ。なのに、右腕の病の所為で白く色が抜けてしまった。……その時、オレは悔しかった。母からもらったものが変わってしまったのが−−」 ハヤテは動く左手を握りしめ、震わせた。 「……お母さまは、どうなさったの?」 「死んだんだ。オレと双子の姉を産んで−−すぐに、な」 そう答え、氷菜が暗い顔をしているのに気付き、ハヤテは慌てて取り繕う。 「まさか、聞いちゃいけないことを聞いてしまって、ごめんなさい−−なんて、言うんじゃないんだろうな?」 氷菜はその通りだったので、頬をポッと赤らめた。 「気にするなよ。言ったのはオレだ。お前が気にすることはない」 言いながら膝を付き、間近で氷菜の顔を見つめた。氷菜もゆっくり顔を上げる。 「お前には、礼をしなきゃならんな。お前は、オレをこの国から追い出すこともせず、足を治してくれた。オレは、今お前にやれるようなものは何も持っていない。だが−−」 ハヤテは地上のある場所に、今まで手に入れた宝を隠してあったので、この氷女の為に美しい宝石でも−−と考えた。 その宝石をやろうと言う前に、氷菜は笑って首を振った。 「お礼なんて−−でも、1つだけ……お願いがあるの」 言いにくそうに、真顔で氷菜はそん願いを口にした。 「−−足は治ったでしょうけれど……あの、もう少し……ここに居てくれないかしら?」 その言葉に、ハヤテは目が覚めるような衝撃を受けた。機会を見計らって自分から言おうとしていたそのことを先に言われてしまい、ハヤテは嬉しいような少し悔しいような気分になりながら、氷菜の願いに答えた。 「−−オレも……あ、いや……。居ても、いいぞ。……じゃなくて、 オレも、もう少しここにいたい−−」 気恥かしさから、ハヤテは氷菜の顔をまともに見れなかった。 暫くして、氷菜が何も言ってこないことが気になり、目だけ氷菜の方へやると−−そこには満面の笑みを浮かべた氷菜が、いた。 「良かった−−」 両手を胸に当て、氷菜はホッとため息を付いた。緑の瞳を細め、ハヤテを見つめる。断られたらどうしようかと思った。−−もう少しだけ、この母思いの彼と一緒にいたい。 そんな、嬉しそうにしている氷菜を見つめ、ハヤテはもっと喜ばせてやりたいと思った。 この氷菜の笑顔を見ていたかった。暖かい気を感じていたい。 「オレは、お前の側にいたい」 ハヤテはそう、氷菜に向かってはっきりと告げた。 ハヤテはまた明日、ここで待っていると言った。氷菜はそれが嬉しくてたまらなかった。 が、あまり妙に喜んでいると、また泪が不思議に思うかもしれない。泪にだったら、彼に会わせても良いかしら−−と、氷菜は思った。 「−−さて、今日は何の話をしようかのぅ」 長の声で氷菜は我に返った。隣には泪が座っている。共に長の話を聞くためだ。窓の無い部屋に、明かり取りの火だけが揺らめいている。 「『外』の話でも、するかい?」 長の問いに、2人は意義を唱えなかった。 「−−『外』は大きく分けて2つある。地上の魔界と、人間界じゃ。 この国は不思議なところで、まれに人間の世界の空間と繋がってしまう。そこにも、この国に居るような鳥やら兎やらがおるが、−−そなたらも、行ったことがあるだろう?」 そう指摘され、氷菜と泪ははっと顔を見合わせた。確かに2人は人間界の雪山へと行ったことがある。ずっと、小さい頃だったが。「氷女ならば……1度くらいは経験のあることじゃ。特に子供はのぅまだ妖力も低いので、わずかな歪みでも渡って行けるのだよ。 −−魔界へはなかなか、行けない。この国は天に浮いておって、我らが地上へ行くには、この高さから飛び落ちねばならんだろう。−−今ではそのようなことを考える氷女は、おらなんだがな」 長はそこで一息ついた。 「地上には、女の他に『男』や、そのどちらともつかない者が大勢いる。我らにとって驚異なのは『男』のように、女に子種を与えるモノじゃ。氷女は男の精を受けて子を産むと−−ほとんど例外なく、 死ぬ。またその子は必ず男児で、もはや我が一族ではなくなる。更にその男児は狂悪な行動をとるようになる。 −−昔、ある氷女が男児を産み、その友がこっそりとその男児を育てたことがあった。その子は歩けるようになると−−真っ先に自分を育てた氷女を殺し、その勢いで多くの同胞をも殺した。ついにはこの国から、突き落とすことができたが、それまで何人もの氷女が殺され傷を負ったのだ。『男』とは、我が一族の数を減らし害を与えるだけの、我らには必要のない生き物なのじゃ」 ちらちらと雪の降る森を、氷菜は考え事をしながら歩いていた。『男』とは、本当に必要のないものなんだろうかと。 自分は彼といるだけで、とても−−嬉しい。 彼の顔が見たい、声が聞きたい。そんな気持ちは更に募り、会えた時は嬉しさを隠せない程だ。 彼も「側にいたい」と言ってくれて−−。 こんなにも、自分を喜ばせてくれる彼は必要のない生き物なのだろうか? 氷菜は、昨日の長の話が脳裏を駆け巡っていることに、不快感を覚えた。今までにも何度か、長から『外』や『男』の話を聞いており、その時は何ともなかったのだが。 原因は分かりきっている。−−ハヤテだ。 今もまた、ハヤテに会いに向かっているところである。早く会いたくて、自然と足が速まった。 岩屋へたどり着き、氷菜は奥へ向かいそっと声をかける。 「−−ハヤテ、いるんでしょう?」 だが、何の声も音すらも聞こえてこなかった。 氷菜は、ゆっくり中へと足を踏み入れたが、わずかに体は震えていた。 もし、この奥に彼がいなかったら−−と考えたのである。彼が、自分との約束を守らず、どこかへ行ってしまったかもしれないと、そう思うだけで、氷菜は泣きたくなった。 岩の影になったところに、ハヤテの足が見え、氷菜はほっと安堵のため息をついた。近づいてもピクリとも動かないところを見ると、眠っているのかもしれない。 「ハヤテ−−」 もう1度声をかけながら、更に近寄った。 「−−!?」 横たわったままのハヤテの姿を見るなり、声にならない叫びが氷菜の口をついて出た。 ハヤテは左手で胸を押さえたままの姿で、倒れていた。わずかに開いている口からは、赤い筋が幾つも流れた跡がついていた。 血を吐いたのだ。その跡が乾いているので、暫く前に吐血したのだろう。 「ハヤテ!」 氷菜は自分の白い着物が汚れるのもかまわず、慌てて駆け寄り、そっとハヤテの頭をその腕に抱えた。 息は−−ある。 苦しそうな、早く浅い息だが、確かに聞こえている。 「……は、やて−−」 もう1度、泣きそうな声で氷菜が名を呼んだ時、彼の瞼がピクリと動き、ゆっくりと開いた。口も頼りなげだが、少しだけ動く。 「−−ひ……な」 「大丈夫!?胸が、苦しいのね?今、楽にしてあげるわ−−」 氷菜は、抱えていたハヤテの頭をそっと自分の膝の上に乗せ、手を彼の胸にかざした。顔に付いた血を、自分の服の袖で拭ってやる。 つい昨日まで、傷ついた足を治していたように、氷菜は自分の力をありったけ注いだ。 が、しばらくしても、彼の様子に変化はなかった。そして氷菜は、 重大なことに気付いた。 彼の右胸の辺りの『気』の流れが、全く狂っている。−−まるで、 黒ずんだ右腕のように! この黒い病は、とうとう右腕を征服し体を、内蔵をも冒し始めたのだろうか。 「−−右腕の『呪い』とやらが……とうとう、体の方に回って来たんだ−−」 ハヤテがぽつりと言った。 「ハヤテ!しゃべっても、大丈夫なの?」 「ああ−−さっきより、ずっと楽になった。……お前の、おかげかな」 そう笑いかけたが、弱々しい笑顔は更に痛々しさを募らせた。氷菜の力が効いているはずはない。氷菜の『治癒能力』は、ただの表層にしか効いていない−−。 「泣きそうな、顔をしている−−」 ハヤテは、体を起こそうとし、氷菜はそれを支えた。 「泣いてなんか、ないわ」 だが実際、氷菜は泣きそうになるのを堪えていた。こんな顔を見られるのが嫌で、でもハヤテの体を支えてあげたいとも思い、氷菜はハヤテの体を抱きしめた。体格が違うせいで、氷菜がハヤテに抱きついているようにも見える。抱きしめながら……震えていた。 「氷菜……」 ハヤテも抱き返す。と言っても、動く左腕だけだったが。1度強く力を込め、すぐに緩める。氷菜も抱きついていた腕を解いて少し体を離した時、わずかな血の匂いが氷菜の鼻を掠めた。 そしてそのまま、唇を塞がれた。 血の、味がする−−。 氷菜には一瞬、自分が何をされているのか、理解できなかった。 抱きしめられて−−口づけられた。 こんな行為があるということさえ、氷菜は忘れていたのだ。 ハヤテの手が背から腰へと移動し、違う動きをする。 氷菜はハヤテの左腕から逃れようと、身をよじった。片腕で、それも本気で力を出してないハヤテの腕を外すのは、割と容易だった。 「……はな……して……」 小さなその言葉は、恐怖で震えている。 氷菜は、これからされるかもしれないことを理解した。そのことは、氷女にとって最も恐れることだった。 ハヤテは、抵抗されるかもしれないとは思っていたが、実際にそうされると、余計に気まずくなった。 「……ああ」 ハヤテは氷菜の体を離し、後ずさる。 「悪かったな」 氷菜は、がくりとその場に膝を付き男を見上げたが、その瞳からは脅えの色を隠せないでいた。 そんな目に見つめられることに、ハヤテは耐え切れず氷菜に背を向けて、外へ出ていった。 外は薄明るく、いつものように雪が降っている。 ハヤテは頭を冷やそうと、冷たい吹雪に身をさらした。 自分の感情を押さえ切れず、氷菜に手を出してしまったことで自己嫌悪に陥っていた。 氷菜があまりにも自分に対して優しいので−−錯覚してしまったのかもしれない。 氷菜が自分を好きなんだというように。 だが、思い違いであって欲しくなかった。ハヤテは、南の果ての村を出てから決めていたことがある。好きになる女は、他種族の女だと。それは氷菜なんだと、彼はもう確信してしまっていたのだ。 −−腕が疼いた。腕ばかりでなく、胸も。 氷菜を泣かせたのかもしれないと思うと、病の所為だけでなく胸が痛い。しばらくそこに立ちつくしていたが、ハヤテの白髪の頭上に雪が積もり始めた頃、やっと背後に人の動く気配がした。 氷菜だった。 「−−ハヤテ……ごめんなさい」 ハヤテは、氷菜がどうしてそんなことを言うのか、分からなかった。悪いことをしたと思っているのは、こちらの方だというのに。 何も言わず立ったままのハヤテの髪が、雪の所為で白く凍り始めているのを見た氷菜は、慌てて駆け寄り手を伸ばして雪を払った。 「こんなになるまで、放っておくなんて−−」 外の者にとっては、この国の冷気は耐え難いものだろう。今まで がこんなところでも平気だったのは、その身に纏う炎の妖気のおかげだった。その彼が妖気を出しもせず、雪が積もるに任せているなど、自殺行為にも等しいことだった。 氷菜が前髪の氷を取ろうと更に手を伸ばした時、ふいにその手を掴まれた。 「−−ハヤテ……」 「どうして、まだここにいるんだ」 「え−−?」 掴んだ手を投げるように振り払い、ハヤテは赤くきつい目で氷菜を睨み付けた。出会った頃のような、殺しかねないような顔だった。 「……あ……」 思わず後退り、氷菜はハヤテから視線を逸らした。 「−−今日はもう帰れ」 その声は、わずかに震えているようだった。氷菜はそっと彼の姿を見つめたが、彼は右腕を押さえ、ただこちらを睨つけていた。 腕がまた、痛みだしたのだろうか。 氷菜は彼に近寄ろうとしたが、あまりに恐ろしい目でハヤテがこちらを見ているので、それ以上何もすることができなかった。 彼に拒まれたことを知り、もう彼の姿を見ずに駆け出していった。 村へたどり着くまで、1度も振り返らなかった。 ハヤテは自分で、髪に張り付いた氷を取った。パリパリと音がして、彼の空しさを募らせた。 白い髪が目に止まったが、それに対してはもう何も考えることはなかった。いつもなら、自分が本来持っていたものではないその色に、後悔と怒りが湧いてくるというのに。 さっきのことは、自分の方が悪かったのだとハヤテには分かっている。 彼女を求めてしまった、押さえ切れない自分の感情からだった。それを抵抗されたからといって、氷菜にあんな態度をとってしまったのは、本当に自分勝手な酷い行為だったと分かっているのだ。 ハヤテは深い自責の念に捕らわれていた。彼は、氷菜が彼を拒んだ最大の理由が、氷女ならではの特性からくるものだということを、知らなかった。 知る由もなかったのだ。 降りしきる雪の中、氷菜は1人、村への道を歩いていた。ハヤテに追い出され、唇に残る彼の血の味にぼんやりとしながら足を運ぶ。 村の入口に近い所で、氷菜は友人の姿を見つけた。 「泪……?どうしたの、こんなところで」 氷菜より幾らか背の高い氷女が、無表情のまま氷菜を見つめている。 「……泪?」 不思議に思った氷菜は、泪の目の前で立ち止まった。 「−−氷菜、こちらにいらっしゃい」 泪は氷菜の左手を掴むと、村とは反対方向へ歩き出した。 「泪?痛いわよ!」 きつく握りしめられた手を振り解こうとしたが、逆に強く握られてしまい、泪に引っ張られるまま氷菜は村から離されていった。 「どうしたのよ、一体。−−泪?」 氷菜は村から離れた大木の下へと連れて行かれ、そこでやっと手を放された。 「−−氷菜」 泪は、叫び出したい気持ちを押さえて、氷菜の顔を見た。 「あなた−−何てことしてるの?」 「え−−?」 氷菜は、どきりとした。今の自分は、後ろめたいことをしているという自覚があったが、泪のこんな怒った顔は、本当に久しぶりだった。 「−−何が、何が『鳥』よ!」 「見てたのね、泪」 氷菜の口から出た言葉は、不思議と冷静なものだった。 いずれ、泪には教えるつもりだった。きっと、こんなふうに怒るのだろうとは、覚悟していた。 「あなたが朝早くから出かけるから−−ちょっと興味があって、今日は後を付けていたのよ。遠くからは、あなた達が何を言っていたのかは、知らないけれども、あれは、あれは−−」 「そうよ。『男』よ、彼は」 「氷菜!」 泪は、氷菜が全く悪びれもせずに答えたことに腹を立てた。 「分かってるの?『男』は、私達にとって、忌むべき存在。何人たりと足を踏み入れさせてはならない者なのよ!」 今にも泣きそうな目で、泪は氷菜を見つめた。 氷菜は、幼なじみをこんなに悲しませてしまったことに、胸が痛んだが、今はそれよりも−−彼が大切だった。 「きっと、そいつだって『氷泪石』が目当てで来た、盗人だわ!氷菜、あなたは騙されているのよ、絶対!」 「違うわ!」 氷菜はきっぱりと言い切った。 「彼は、違うわ。だって、彼は私が渡した石を、すぐに全部返してくれたのよ。彼が石を欲しがったのは−−」 無責任な噂の所為だ。彼はあの『呪い』を解こうと思って……。「そんなの、あなたを騙す方便に過ぎないわ!きっと、氷菜を外へ連れて行こうとしているのよ。氷女がいれば、氷泪石は取り放題ですからね!」 「いいえ、だって彼は石がどうやって作られるのかなんて、知らないんですもの」 「氷菜、どうしてあんな『男』のことなんか、庇うの……?」 泪は氷菜の肩を掴むと、大木の幹にその体を押し付け、小さな声で囁いた。 「今なら、まだ間に合うわ−−あの『男』のことなんか、忘れなさい。本当は氷漬けにしてやりたいところだけれど……それは、止めにしてあげるから。あの『男』には『死の影』がまとわり付いているわ。もう、あの男の命は長くはないわ……」 「え……?」 氷菜は、大きな緑の目を更に見開き、泪を見返した。 「あの『男』は、もうすぐ死ぬのよ。私の『力』は知っているでしょう?−−私には『死の影』が見える」 「嘘!そんなの……嘘よ!」 「私が、今まで嘘を言ったことがある?」 氷菜は泪の言葉が信じられなかった。が、泪の『力』は本物だった。幾ら氷菜が甲斐甲斐しく世話をした動物でも、泪が首を横に振れば、やがて息絶えてしまうのだった。 小さい頃は、その泪の力の所為で小鳥が死んだのだと言って、泪を困らせたことが良くあったが、今もそんな気持ちだった。 だが、氷菜も薄々気付いていたのだ。 彼の命は、もう長くはないだろう−−。 血を吐いて倒れていた彼。今では右腕どころか、体全体の気の流れが狂っていた。 「そんなの……嫌。嫌よ」 自分の不安が的中してしまった。氷菜は小さく首を振り続ける。「そんな……だって、私は彼を……」 「氷菜は……あの『男』を好きになってしまったのね……。だったら、尚更よ。忘れてしまいなさい」 泪は、氷菜の肩を抱き寄せた。 「忘れて……氷菜。このことは、私は誰にも言ってない。知っているのは、私とあなただけだから−−。これ以上好きになる前に、忘れて。−−お願い!」 きつく抱き締められて、氷菜は茫然となった。 「彼……を、忘れる……?」 「そうよ!忘れるのよ。あの『男』はこのまま地上へ帰して、私達はまた元どおりの生活をするの。−−氷菜、できるわね?」 泪はその瞳から、涙を1粒こぼした。それは、雪の上に落ちる前に冷たく凍りつき、石になる。 ぼんやりと氷菜はそれを目で追っていた。 −−彼を、忘れるなんてできない−−。彼の命があとわずかだと言うのなら、尚更だわ−−。 氷菜は泪の心づかいを嬉しく思いながらも、その言葉に従うことはできなかった。 今では逆に、泪の体を抱き締めながら、白い世界だけを見つめていた。 |
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