ACT.2

BY 月香

 彼は右足に走る激痛に耐え切れず、呻き声をあげた。折れたのかひびが入ったのか−−。だが、彼は何とか起き上がり、雪の上に座り込んだ。
 身にまとっていた黒い上着は、雪にまみれて真っ白になっていて、男はそれを煩わしそうに払い落とした。
 冷たい空気、吹雪く雪。ここが氷河の国であることは、間違いない。あとは、氷泪石を捜すだけだ。そのためには、氷女を捜した方がてっとり早いだろう。
 彼がため息をついて目を閉じると、風の音に混じってギュッギュッという、雪を踏みしめる音が聞こえた。
 はっと、その方を見ると、白い女が立っていた。
 白に青が少し混じったような長い髪を1つに束ね、大きな緑の目をした白い着物の女。−−氷女だ。
 彼はこんなに早く氷女が見つかるとは−−と、密かに胸を踊らせた。
 捕まえてやろうと、ぐっと体に力を入れたが、右足と右腕の痛みに彼は顔を歪ませた。
 氷女はそんな彼を見ても、逃げも慌てもせず、ゆっくりと歩み寄ってくる。
 彼は逆に警戒した。もしかしたら、氷女は見かけの姿からは思いもよらない力を持っているのかもしれない。自分の力を凌駕する力を−−。
 だが、氷女は男のすぐ近くまで来ると、漆黒の衣をまとった男を見下ろしながら、笑いかけた。
「−−黒い鳥が……怪我でもして、落ちてきたのかと思ったわ……」
 細く高い声で、女は呟いた。
「足を怪我しているの?」
 恐れる様子もなく、女は男に手を伸ばしてその右足に触れる。
「−−骨が、砕けているんだわ」
 男ははっとして、その女の肩を掴んだ。
「−−きゃっ!」
「おい、お前!触っただけで何の怪我なのか、分かるのか?じゃあ、これは何だ」
 彼は女を引き寄せると、自分の袖を捲りあげ、肘まで黒く変色している腕を見せた。
「まあ……」
 氷女は見たことのない症状に目を見張ったが、すぐさま気を取り直し、その黒い腕に触れた。
「……何か、呪いのようなものをかけられたの?」
「呪い、だと?」
「ええ……だって『気』の流れが、おかしいもの」
 氷女は男の右腕を恐れもせず、その白い指でなぞるように触れた。が、男には触られているという感覚が全くなく、それが男に苛立ちを募らせたのだ。
「おい、お前!」
 男は氷女の腕を掴むと、ぐいと引き寄せ、女が逃げられないように細い首を左手で締め上げた。血のような赤い瞳で睨み付ける。
「−−ひっ……」
「お前、氷女だろう?−−氷泪石をよこせ!」
 更に、左手に力を込める。氷女は目を細め、苦しそうに浅く息をしながらも、自分の首を絞めている男の腕を両手でしっかりと掴んだ。そしてその部分に、自らの氷の妖気を集中し始めた。
 男は自分の左腕が痛い程冷たくなるのを感じ、慌てて女をなぎ払った。
 雪の上に倒れこんだ氷女は、ゲホゲホと咳をすると男を睨み付け、ゆっくりと距離をとりながら立ち上がった。
「この女−−!」
「あなたも、氷泪石が目当てなのね」
 熱くなっている男とは逆に、女の声は冷ややかで、有無を言わさぬ強さがあった。
「−−あなたのような傷を負った者が、たった1人でこんなところに来るなんて、死にたいの?あなたは。−−私達の力を合わせれば、ここにあなたの氷漬けを作るなんて、簡単なことよ」
 緑の瞳で男を見据えたまま、氷女は続けて言った。
「出て行きなさい。−−命が惜しいのならね」
 氷泪石目当ての者がこの国に入り込むことは、ままあることらしい。女の物言いは慣れたふうだった。
「出て行きなさい、死にたくは、ないでしょう?」
「そうだ、死にたくはない!オレはだからここに来たんだ」
 男は女の気迫に負けないように、声を張り上げた。
「氷泪石を出せよ!それがあれば、オレは助かるんだ」
 男の右腕の黒ずみは、だんだんと広がってきて−−そう遠くない未来、自分の体の全てが覆われてしまうだろうという予感があった。この、訳の分からない病が、直接命に関わるものではないとしても、この魔界で不自由な体を持つことは、死に直結する。現に、今の男の右腕は、碌に動かず、感覚もほとんど、無いのだ。
「『助かる』?何から?」
「この腕を治すんだ!氷泪石があれば、どんな病でも治るという。オレはまだ、死にたくない。だからだ。−−氷泪石をよこせ!そうしたら、出ていってやる」
 女は驚いた顔で、男を見つめていた。そして、男が庇うようにしている黒く色の変わった右腕に目をやった。
「……そんな話、どこから聞いたの?そんな、デタラメを……」
「何?デタラメだと?」
「そうよ」
 呆れたように首をかしげる女を目の前にし、男はあっさりと否定されたショックを隠せなかった。
「デタラメなものか!下の連中は、皆そう言ってるんだぞ!」
 もしそうなら、男がこの国へ来た意味が無くなってしまうことになる。
「……下で、他の種族が何と言っているのか−−知らないけれど、氷泪石にはそんな力は無いの。−−本当よ」
 女の瞳には、先程までの冷たい拒絶した色は無く、代わりに男の受けた驚愕と絶望を感じ取ったかのように、深い悲しみと哀れみがあった。
「……う、嘘を言うな!」
「−−嘘じゃないわ」
 立ち上がることもままならない男は、縋るように女を見上げた。
「−−嘘じゃないわ」
 氷女は諭すように繰り返した。
 氷泪石は、氷女の涙が結晶化し、石になったものだ。透明感のある純白の宝石で希少価値が高く、下界ではかなりの高値で取引されるという。
 今まで、石を手に入れようとしてやってくる下界の者達は多くいた。だが、今ここにいる男のように、別の意味で−−治療効果を求めてこの氷河の国へやって来た者は、いなかった気がする。
 女はゆっくりと男に近付いた。
「怪我をしていたわね。あなたの足……」
 女は、男のすぐ側に膝を付くと、怪我をしている−−おそらく、骨が砕けているだろう男の右足に、そっと手を触れた。
「お前、何をする!」
 とっさに男がその手を除けようとしたが、女の静かな声に退かれてしまった。
「静かにして。何も、あなたをどうこうしようっていうんじゃないわ……。お願いだから、おとなしくして−−」
 女はついさっき、自分の首を絞めた男に向かって微笑んでみせた。
 大丈夫、何も心配しないで−−と。
 男は不思議とその言葉に逆らう気が失せ、おとなしく女のするに任せた。
「たいした怪我じゃないわ、大丈夫よ」
 女は1度、男の顔を覗き込むように見ると、視線と意識を彼の右足に戻し、骨に異常がある部分にそっと両手をかざした。『気』の高まる気配を感じたかと思うと、男の目に見える程の力の波が、女の手のひらから送られてくるのが分かった。
「……お前−−?」
「黙って」
 暖かい『気』だった。
 こんな、吹雪の止むことの無い世界にいながら、氷女の妖気は、ひどく暖かで−−優しかった。
「−−どうかしら?」
 女の声ではっと現実に引き戻された彼は、自分の右足が、前程痛まないことに気付いた。
「これは−−お前がやったのか?」
「ええ、そうよ」
 氷女はにっこりと笑いかけた。
「−−私達氷女には、たまに、こういった『力』を持っている者がいるの。私は、まだこの力を鳥や兎達にしか使ったことがなかったから、うまくいくか不安だったけど−−前程、痛くないでしょう?」
「ああ−−」
 確かに、痛くなくなった。少し、痺れたような感じはしたが、たいしたことはないようだ。
「良かった」
 氷女は心底嬉しそうな顔で、男に笑いかけている。
「さあ−−もう、なんとか歩けるでしょう?この国から出ていったほうがいいわ」
 ここにいてもきっとその腕を治す方法はないだろうから−−−と。だが男は首を横に振った。
「いや−−やはりオレは、氷泪石が欲しい。そんな怪我を治す力を持ったお前達の持つ石なら、もしかしたら本当に噂通りの力があるのかもしれない−−」
 男は今度は無理やりに石を奪うのではなく、なんとか交渉して手に入れようとした。
「頼む−−オレに氷泪石をくれ!代わりにオレができることなら、何でもしよう」
 最後の頼みの綱として、男は遥々ここへやって来たのだ。話を聞いただけでは、帰れなかった。
「でも……本当に、氷泪石には、そんな力はないのよ」
「お前達氷女が、知らないだけなのかもしれないし、氷女自身には、その力が効かないのかもしれない。−−頼む、氷泪石をくれ。……あ、いや、貸してくれるだけでもいい!」
 男はまだ痛む右足を引きずり、よろりと立ち上がった。女よりも頭2つ分程背の高い男は、見下ろすような恰好で氷女に頼んだが、不思議と威圧感はなかった。
「諦めが悪いのね。『男の人』って皆そうなの?」
 氷女は可笑しそうに笑った。男は自分が子供扱いされたような気がして、少しムッとしたが、氷女の笑顔が余りにもかわいらしく思えて、すぐに気をとりなおした。
「いいわ−−氷泪石をあげるわ。そうすれば、石になんの力も無いことが分かるでしょうしね」
「本当か?」
 ぱっと晴れがましい顔を向けた男が、余り嬉しそうに言うものだから、氷女も楽しくなってしまった。
「本当よ。−−明日、持ってきてあげるわ。私、もう行かなきゃならないし」
「明日、明日だな。よし、ここで待ってるから、絶対来いよ!」
 まるで、子供が遊ぶ約束を取りつけたような、そんな顔で喜ぶ男に氷女は「約束するわ」とだけ言うと、その場を立ち去ろうとした。
 ふと思い立って、氷女はすっと後ろを振り返った。
「ねえ−−あなた、名前は何ていうの?」
 そう問われて、男は互いに名乗っていなかったことに気付いた。
「お前は、何ていうんだ?」
「私は、氷菜よ」
「……『氷菜』……か。オレはハヤテだ」
 氷菜と名乗った氷女は、ふわりと微笑むと吹雪の中へと消えていった。


 炎の妖怪、ハヤテはまだ痛む足を庇いながら、森の中を歩いた。
吹雪をしのぐ場所を探すためだ。
 とりあえず、氷菜と約束した場所の木の枝を折って目印とし、辺りを見回した。
 いくら炎の妖気を持つとはいえ、一晩も雪の中で立っていたのでは、体が凍ってしまう。
 ハヤテは少し歩いたところに岩山を見つけ、大人が2、3人は楽に入れそうな、丁度良い割れ目を見つけた。
 中に入ると、さすがに雪は中に入ってこないし、何より止むことを知らない風を凌げることが、都合良かった。
 冷えた岩の上に腰を降ろし、ハヤテは一息ついた。吐く息が白く、体も冷えてきたので、ほんのわずか妖力を高め、自らの気で体を暖めた。
 しばらくすると、体は暖まってきたがその分、足の痛みと腕の鈍痛が更にはっきりしてきた。
 ハヤテは、服の袖を捲りあげると、右腕の様子を見た。触っても感覚がほとんどない。ただ、痛みがあるだけだ。黒い皮膚は最初は指先だけだったのに、今では肩の付け根の辺りまで、広がっていた。確実に、氷菜の言うところの『呪い』は、進行しているのだ。
 氷菜は氷泪石には、病や怪我を治す力は無いと言った。それが本当だとすればあの噂は偽物で、もしかすると氷菜のような治癒力を持った氷女と石とが、一緒にされて伝わったのかもしれなかった。
 が、氷女の治癒力でも、この腕は治らないらしい。
 −−切り落とせば、助かるだろうか?
 そんなことを思い出して、ハヤテは慌ててその考えを振り払う。
 何のために、ハヤテが治療方法を探してこんなところまで来たのか。母からもらったこの体を、欠けさせたくなかったからではないのか?
 −−とにかく、今日会った氷女は氷泪石をくれるという。石に力があるかどうかは、本物を手にすればわかるだろう。
 ハヤテは岩の壁に背を預けると、周りの気配をうかがいながら、目を閉じた。


 厚い雲に覆われた氷河の国の朝は、ぼんやりとした光で始まる。
 ハヤテは徐々に白じんでくる空を見て、夜が明けたことを知った。が、朝から雪は降り続けており、遠くの景色は全く見えなかった。
 昨日の氷女は、今日氷泪石を持ってくるはずだ。時間は特に指定しなかっ
たが、とりあえずすることもないので、外へ出ることにする。
 雪は、白い大地に降り積もってゆくが、何故か積もったはずの雪の高さは、変わらないように見えた。景色が全く変わらないのだ。まるで、景色さえも凍りついているかのように。
 昨日、ハヤテが付けた足跡は、全て白く染め戻されていた。


 ハヤテはゆっくりと、昨日の場所へと向かった。
 足は昨日程は痛まない。氷女の治療も効をそうしたのだろうが、一晩でここまで回復したことは、ハヤテ自身の回復力も無視できない。
 昨日、氷女と約束した場所へとたどり着くと、氷菜がすでにそこで待っていた。
 男の姿を認めると、薄く笑いかけた。
「−−どこへ、行っていたの?」
「雪を凌げる場所だ。お前は、いつ来たんだ?」
「さっきよ」
 ハヤテは氷女を見て、ほっとしている自分に気が付いた。もし、今日、氷菜がここへ来なかったら、その腹いせに氷女の村を炎で焼きつくしてしまおうかとも思い詰めていたからだ。
 長く薄い青色の髪をなびかせ、氷女は近付いてくる。その右手はしっかりと握りしめられていた。
「……持ってきてくれたか?」
「ええ−−これよ」
 氷菜は、すっと右手を差し出した。広げられた白い手のひらの上には、小さな白い石が3粒のせられていた。
「これが−−氷泪石、か……」
 ハヤテは、初めて見る高価な石の輝きに、目を奪われた。
 白い透明さを持つ、完全な球体の宝石。1粒あれば、一財産ができるとも言われ、不思議な治癒能力を持つという噂の−−石。
 差し出された手から、試しに1粒、手に取ってみた。
 冷やりとした、硬い石だった。
 だが触れてみても、ハヤテには何の力も感じられなかった。持っているだけで、あらゆる病や怪我を治すという噂は、やはり噂でしかなかったのか−−?
 ハヤテは石をぎゅっと握りしめ、がくりと頭を下げた。自分が情けなかった。
今まで当てにならない話を信じてきた自分が。あの密林の秘宝を手に入れようとした時から、ハヤテの勘は狂いっぱなしだった。
 ハヤテは氷菜に石を返そうと、左手を上げた。氷菜は、少し悲しげな顔で男を見ていた。
「−−もう、いいの?」
「ああ……どうやら、氷泪石の話は、嘘だったらしい」
 氷菜はハヤテから石を受け取った。
 ふと、これからこの人はどうするのだろうと気になり、氷菜はハヤテに問いかけた。
「これから、どうするつもりなの?」
 氷泪石がハヤテの言うような力を持っていなかったことは、別に氷菜の所為ではないのだが、自分の生み出した石の所為で、男がそんなにも悲しげな顔をしていることが、氷菜にはとても辛いことのように感じた。
「−−ここを出て行く」
 だから、ハヤテがそう答えた時、つい氷菜は彼を引き止めてしまったのだ。つい昨日は、自分が出て行けと言った本人だというのに。
「待って!」
 そう叫んだ氷菜は、自分が言ったことに驚き、ハヤテも何故女がそう言ったのか分からず、振り向いた。
「−−何だ?」
「あ……まだ、足のほうがちゃんと治ってないんじゃないの?」
 氷菜の言った通り、ハヤテの右足はまだ完治しておらず、今も少し足を引きずって歩いていたのだ。
「そうだな、まだ少し痛むが大したことじゃ−−」
「私が、治してあげるわ」
「何だと?」
 男は驚き、声を上げた。
「そりゃあ−−昨日、お前が触った足は、随分痛みが取れて楽にはなったが−−」
「あなたの足は、骨が砕けていたのよ。あと……2、3日で私がちゃんと治してあげる。だって、その腕じゃ、下界に降りたら心もとないもの。せめて、足だけでもしっかりしてないと−−命を落としてしまうわ」
 何故か、女が引き止めるが、冷たいが美しい女に引き止められるのは、ハヤテにとっても悪い気はしなかった。
 これが、つい昨日「出ていかなければ、氷漬けにする」と言っていた、同じ女だろうか?
「だが、−−何故オレにそこまでしようとする?さっさと男には出ていって欲しいんじゃないのか?」
 そう言われるとその通りなのだが、氷泪石が目当てでやって来る他の妖怪とは違い、折角渡した石を返すような者は、おそらくハヤテが初めてなのではないのかと、氷菜は彼に興味を持っていた。
「あなたは、石が目的でここに来たんじゃないんでしょ?この国に、何か危害を加えようとしているのでもない。なら、かまわないわ」
 氷菜は男に笑いかける。
「どうするの?私に治療させてくれるの?」


 ハヤテは氷菜の申し出を受けた。
 今となっては次に行く当ても無く、数日ぐらい時間を費やしてもかまわないだろうと思ったのだ。
 とりあえず、雪を凌げる場所ということで、ハヤテが昨日一晩過ごした岩場に2人はいた。
 腰を降ろした男の側に、氷菜は膝を付く。そして、白い手を右足の上へかざし、静かに力を注いでいく。
 氷女の冷たい妖気とは裏腹に、暖かな『気』だった。
 真剣な表情で気を送り続ける女の横顔を、ハヤテはじっと見つめていたが、ふいに氷菜が顔を上げると慌てて逸らした。
「−−何?」
「あ、いや……」
 軽く首をかしげて聞いてくる氷菜に見つめられ、ハヤテは自分の顔が火照るのが分かった。
「その……お前は、優しいな−−」
 一言、言ってしまうと弾みがついたのか、ハヤテは治療の手を休めてしまった氷菜の顔に、真っ直ぐに向かった。
「それだけじゃない、優しいだけじゃなくて−−綺麗だ」
「誉められるのは、悪い気はしないわ……」
 氷菜は、緑の目を細めて、ほんの少し頬を染めた。
「氷女ってのは、皆そうなのか?」
 ハヤテの言葉に、今言われたことが全ての氷女に向かって言われたことだと知り、氷菜は少しでも喜んだ自分がバカらしくなった。
 一瞬にして、今までの気分が冷めてしまい、氷菜はスッと立ち上がった。
「−−帰るわ。あまり長い時間、姿が見えないと捜しに来る人がいるから」
 くるりと背を向け、吹雪の中へ出て行こうとする。が、すぐにその歩みは止められた。
 ハヤテが氷菜の手を掴んだのだ。
 びっくりした顔で振り向いた氷菜を見て、ハヤテの左手の力がぐっと強められた。
「また−−来るんだろ?」
「ええ……また、来るわ」
 ハヤテの赤い瞳に見つめられ、氷菜は自然にそう答えていた。


 村に帰った氷菜に、声をかけたのは、大人びた顔をした氷菜の幼なじみの泪だった。
「どこへ行ってたの?−−あら、何だか楽しそうな顔をしてるわね」
「分かる?」
 氷菜は、泪の問いに答えたそうな顔をしていたが、まさか『男』のところへ行っていたとは、言えず−−代わりにこう言った。
「−−怪我をした、黒い鳥がいるの。今、怪我を治してあげてるところよ」
「そうなの?」
 氷菜が小鳥だの小さな獣が好きなのは知っている。今までもよく、怪我を治してやっていたのも知っていた。が、こんなに嬉しそうな顔をしているのは、初めて見た気がする。
「どんな鳥なのかしら−−私も、見に行ってもいい?」
 泪は、実の姉妹のように過ごしてきた氷菜を、ここまで楽しませるものが何なのか知りたくて、そう氷菜に尋ねたが彼女は首を振った。
「だめよ−−まだ。もう少し仲良くなったら、教えてあげるわ」
 そう言って笑う氷菜を見ていると、何としてもその気に入った『鳥』とやらを見たくなった。
「まあ、そんなに勿体ぶらなくたってもいいじゃない。ねぇ、見に行っても−−」
「だめよ!」
 氷菜が突然、大声を出した。泪はあまりの出来事に、びくりと動きを止めた。手を胸の所でぎゅっと握りしめ、やっとのことで泪は声を出すことができた。
「……ひ、な……?」
「あっ……ごめんなさい、泪」
 氷菜は慌てて泪に謝った。
「ごめんなさい……あの鳥は、私にもまだあまり慣れてないから−−」
 途切れ途切れに弁解する氷菜の顔を見て、泪はなんだか可笑しくなった。いきなり大声を上げて、何かと思えば……。
「いやね、氷菜。まるで私があなたの鳥をどうにかするみたいじゃない」
「え?あ、そんなこと……」
 泪はくすくすと笑いながら、氷菜の先を歩いて行った。
 その後ろ姿を眺め、氷菜も後を付いていったが、泪が言ったことが氷菜の耳に残っている。
 『あなたの鳥をどうにかするみたい』
 そう言われた時−−胸がドキリとした。きっと、それは図星だったからだと思い付き、今度は顔が赤くなる。
 これではまるで、自分が黒い鳥−−彼を、泪に取られるのを嫌なような、独占したいような感じではないか。
 氷菜はハヤテの言葉も思い出す。
『綺麗だな−−他の氷女も、そうなのか』
 そう言われて、すごく嫌な気持ちになった。確かに若い氷女は、整った顔立ちが多く、泪もまた美しいと言える容姿をしているだろう。
 氷菜はただ、怪我をしていてかわいそうだと思って、彼をこの国に留めたと、自分ではそう思っていたのだが、それは少し違う理由なのかもしれない。
 きっと自分は、彼に自分が1番綺麗だと−−そう、思われたいのだ。


 氷菜は泪の後について行き、住まいへと戻った。氷河の国のほぼ中央にある白い壁の館は、年老いた氷女の長が住まうところでもあった。
 泪と氷菜には母親がおらず、その親族達も引き取ろうとしなかったため、長の元へ引き取られたのだった。
 2人は次代の長になるための教育を受けていた。いずれ、どちらかが氷女の長になるだろう。
 氷女の歴史は口伝で伝えられ、長い歴史で物語られているが、その内容は単調なもので、たまに挟まれる出来事といえば『忌み子』の出現ぐらいである。
 氷女は、約百年周期で子供を産む。その子は必ず女で、母親の血肉をそのまま受け継いだ分身だった。−−が、ごくまれに男児が産まれることがある。本当に、まれなことだったが。
 それは、氷女が百年周期の分裂期に男と交わり、子を宿した時だけ、男児が産まれるのだ。が、その子供はもはや、氷女のものではない。女児が母である氷女の分身であれば、男児は父親の分身そのものだった。
 その男児は父親の性格に関係なく、狂悪な性質に生まれつくのだという。そして母となった氷女は−−死に追いやられる。
 まるで約束事のように、男と交わった女が男児を産み、その子は母を殺し−−空飛ぶこの国から追放される、投げ捨てられる−−ということが繰り返されていた。
『男』とは、氷女を死に追いやり、氷河の国を破滅に追い込む者。そして、氷女の涙が石となってできる氷泪石を奪いに来る盗人だと、全ての女がそう教えられていた。
 もちろん、泪と氷菜も。
 氷菜は今までに、数人の『男』を見たことがあった。今までの男達は氷泪石目当ての教えられた通りの者だったが、昨日会ったばかりのハヤテは、そんな教えとは違う種類の『男』のような気がしていた。

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