「黒い太陽」

                          BY 月香
Act.1 


 霊魂体だけになっていた飛影は、邪眼で自分の体の在り処を確認した。
 霊界クーデターを静めるために幽体離脱して、幽助達と出発した場所には、自分の体が無かったからである。
 体を置いてあったのは幽助の家だった。その皿屋敷市は、霊界の正聖神党の標的にされていたのだから、おそらくどこか安全な場所へ誰かが移動したのだろう。
 そして、その在り処を発見して飛影は愕然とした。
「――おかえり、飛影」
 そこには蔵馬が居た。
 居た、というのは正しい表現ではない。蔵馬が自分の家の部屋に、飛影の体を運んでいたのだ。
 蔵馬は窓枠に体を預けて、空の上から見下ろしている飛影に笑いかけた。
「なんだお前、まさかずっとここに居たのか?――オレの体も」
 蔵馬の住むこの町は、幽助の家からそう遠い場所ではない。霊界の異次元砲の攻撃範囲は、半径50キロメートルだった。充分、この家も範囲内である。
 そんな危険な場所に蔵馬は居たのだ。それも、飛影の体と共に。
「うん、母さんたちはドライブに行かせたよ。ちょっとムリヤリだったけどね」
 にこにこしている蔵馬を視界の端に捕らえながら、飛影はまず先にと自分の体へと戻った。そして一番最初にしたことは、蔵馬の胸倉を掴み上げることだった。
「……貴様、幽助が失敗していたら、ここも危なかったんだぜ!?よりによって、オレの体も道連れに――」
「だって貴方、失敗しないって信じていたじゃないですか。だから、オレも信じていたんです」
 蔵馬の言うことは、皮肉だった。
 必ず幽助が正しい選択をしてくれるとは、誰も思っていなかったはずだ。
 異次元砲の押すボタンによっては、皿屋敷市周辺が消し飛ぶか、自爆するか、何も起こらないか……。
 だからコエンマは幽助と、責任も未来も全てを共有するために、あの場所へ残ったのだろう。そして、その場所にはもう一人、飛影も残った。
「だからといってな、貴様」
 こんな、危険な場所で防御も何もせず、呆けている蔵馬に飛影は苛立ちを感じる。
 飛影は決して、死ぬつもりで霊界に居たわけではない。幽助の様子を見たかっただけだ。幽助はいつも、飛影の予測の範囲を超えた事をやらかしてくれる。好奇心だったのだと、自分では思っている。
「……ヒヤッとしたでしょ?」
 蔵馬が冷たい笑みを浮かべる。
「何?」
「オレもそうだったよ。貴方が霊界に残ると言った時、体中の血が凍りついたかと思った。……オレは、貴方が死ぬのが嫌だったんだ。なのに、貴方は残ると言った」
 蔵馬の尋常ではない様子に、飛影は反射的に身構えた。そんな飛影を見て、蔵馬はゆっくり肩の力を抜く。
「ちょっとしたイヤガラセだよ」
「何だと?」
「それに、どうせオレが死ぬんなら、貴方も道連れにしてしまおうと思ったんだ。貴方が死んだらオレも後を追おうかと思った。……飛影はオレが死んでも、絶対に後を追ってはくれないでしょう?」
「当たり前だ」
 何故、蔵馬がそんなことを言い出したのか、飛影には理解できない。だが、蔵馬の言うことは間違っていないと思った。
 飛影は、例え誰が死んだとしても、後を追って死ぬなど微塵も考えつかない。
「だから、オレが道連れにしようと思ったんだ。オレ、貴方と一緒にいたい。ずっと、一緒に……」
 蔵馬が、こんな泣き言のようなことを言ってくるのは、初めてのような気がした。





Act.2


「蔵馬の様子がおかしいだと?」
 飛影の言葉にコエンマが神妙に頷いた。
「正確に言うと、蔵馬の生命エネルギーがおかしいと言ったところだな」
「……生命エネルギー」
「そうだ、蔵馬の生命エネルギーの反応が、レーダーに引っかからんのだ」
 レーダーというのは、人間界に多数存在する妖怪達の居場所を把握するために、霊界が開発した妖気計の特大版である。妖力が強大であればあるほど、このレーダーからは逃れられないようになっている。
 このレーダーの存在は、魔界の煙鬼や黄泉、躯達は了解済みのことだ。
 別に特定の妖怪を識別することが目的ではない。人間界における妖気と、自然現象等、色々な事柄を比較、研究するためのデータ集めが主な目的だった。
 だが、コエンマにも自分の立場を利用した楽しみを、味わいたい時もあるのだ。
 なにげなく、コエンマが蔵馬の様子を確認しようと、画面を見ていた時だった。
 蔵馬がレーダーに反応しないのだ。
 霊界モニターを見て直に姿を確認してみると、ちゃんと『南野秀一』はそこにいた。
「大方、何か霊界の目をくぐり抜ける方法を、使っているだけだろう」
「……そうだと良いのだがな。ついこの間までは、普通に反応していたのだ」
「壊れたんだろう。くだらんことで、オレを呼ぶな」
 今日、飛影は躯を通じてコエンマから呼び出しを受けていたのだ。
 緊急の用だと伝えた躯が、何やら意味ありげに笑っていたのが気になった。躯は、今日の呼び出しの用件を聞いていたのかもしれない。
「人間界のことなら、幽助にでも聞け。オレは知らん」
「おや、今でもお前は蔵馬の所へ行っているのではないのか?お前だったら、少しの違いにも気が付くのではないかと思ってな。それに、蔵馬のことを幽助にまかせてもいいのか?」
 からかいを含んだコエンマの物言いに、飛影はギロリと睨みつける。その瞳は今にも炎を噴出しそうだった。
「どっちにしろ、機嫌が悪くなるのであれば、お前ちょっと蔵馬の様子を見てきてくれないか?」
「……オレは知らん」
 コエンマは飛影が蔵馬の所へ、しょっちゅう姿を見せていると思っているようだったが、実の所飛影は霊界クーデター以来、蔵馬と一度も会っていなかった。


≪≫≪≫≪≫


 久々に飛影が蔵馬に呼び出されたのは、町里離れた山の中だった。
 会うと言えばいつもは蔵馬の家だったが、今回はなぜかこんな場所へと呼び出された。
 それも、たまに蔵馬の所へ様子を見にやっている、飛影の使い魔に言付けるという、回りくどい方法で。使い魔で蔵馬の様子を伺っているのは、蔵馬自身には言っていなかったが、案の定気が付いていたようだ。
 飛影が一際高い木上に立ち蔵馬が現れるのを待っていると、背後に何かの気配を感じた。かなり遠くではあったが、明らかに自分に対して何らかの目的を持って、視線を送っているようだった。
 一瞬、蔵馬かとも思ったが、その妖気が少し違うようだった。ただ、蔵馬と同じく動物を正体とする妖怪のようだということは分かった。
 取るに足らない低級妖怪だと判断した飛影は、その気配の持ち主を無視しきっていた。
 と、その妖気の持ち主が動いたのだ。
 飛影の背後に石の礫が打ち込まれた。それを、間一髪で避けると今度は、その飛影が避けた場所へと礫が打ち込まれる。
 飛影は、狙われやすい木の上から、草木の生い茂る地上へと一旦身を隠す。
 攻撃自体は、そんな高度なものではない。だが飛影は、この距離で自分に正確に石を打ち込む敵の力量と、その持っている妖気の弱さとのギャップに興味を覚えた。
 ふと飛影の脳裏に、かつて幽助を狙っていた人間のことが浮かんだ。
 だが、あれは確かに人間であり、たった今自分に石を打ち込んで来ているのは、微弱ながらも妖気を持つ妖怪だ。
 飛影は額の布を取り去ると、攻撃してくる相手の姿を見定めようとした。
 しかし、どうしたことか、そのシルエット程度しか見極めることができず、飛影は目を細めた。
『得体の知れない相手には、慎重にことを進めなければダメですよ』
 そう言った蔵馬の言葉が思い出されたが、飛影は敵の姿を捉えようと一歩足を踏み出した。
 その時始めて気が付いた。自分の動きを絡めとるように、足元の草がきつく自分の足首を捕らえていたのだ。
「――!!」
 剣でその草をなぎ払うと、飛影はすばやく横に飛び退った。途端、今まで自分が潜んでいた場所に、狙いを違わず石礫が三つ打ち込まれた。
 敵がもう少し近い場所から攻撃していれば、その攻撃をまともに受けていただろう。
 飛影の鼻先を、キツイ匂いが掠めた。飛影はこの匂いを知っている。毒だった。どうやら、石礫に仕込んであるらしい。
 飛影はある胸騒ぎを感じ、もう一度邪眼に意識を向ける。やはり、敵の姿を捕らえることができなかった。
「――チッ!」
 飛影は右手に剣を構えたまま、音も立てずに敵へと間合いを詰めた。飛び道具を持つ敵を倒すには、その懐へ入るのが一番効果的だ。
 いまや、S級妖怪の仲間入りを果たした飛影にとっては、この程度の敵を倒すなど簡単なことだった。
 が、飛影は先ほど感じた胸騒ぎを完全に消し去ることができず、手にした剣で切り捨てることは抑え、その背後に詰め寄った。
 喉元に剣を突きつけられ動きを止めたその敵は、夜目にもそれと分かる赤みがかった長髪をしていた。
「何を、している」
 そう問われ、振り返った顔は、飛影の待ち人のものだった。
 一瞬、誰か自分に害をなそうとしている者が、蔵馬の姿を写し取ったのかとも考えたが、その妖気はかなり微弱ながらも、今でははっきりと蔵馬と同じモノだと分かる。
 蔵馬の身に付けている、特殊な布の服のせいで誤魔化されていたのだ。
 だが、この弱すぎる妖気はなんなのか。
 妖気を抑える方法は色々あるらしいが、蔵馬がそうして自分を襲うことに何の意味があるのか?
 飛影が口を開こうとしたその時、蔵馬の細い手が飛影の腕を掴んだ。
 そしてそのまま、自らの首に当てがわれたままの剣の刃を、力強く、引いた。
「――!蔵馬!」
 飛影の腕に倒れこんできた蔵馬の首筋からは、赤い血が噴き出した。
 敵を殺すことに慣れている飛影の刃は、蔵馬の頚動脈へとピタリと添えられていたのだ。
「貴様、何を考えている!」
 飛影は自分の着ていた黒衣を引き裂くと、蔵馬の首にぐるりと巻きつけた。
 この程度で死ぬ蔵馬ではないはずだが、今の蔵馬の行動は明らかに自虐行為だった。自ら進んで死のうとした蔵馬自身の生命力は当てにならない。それに、飛影は今の蔵馬の妖気の低さ、生命力の儚さが酷く気になっていた。
 コエンマが言っていたことが、途端に信憑性を帯びてくる。
 飛影は蔵馬を抱えると、魔界の狭間へと身を躍らせた。


≪≫≪≫≪≫


 目を覚ました蔵馬は、ぼんやりと周りを見回していた。
 有機的な感覚を与える天井、脈打つ鼓動が目に見える壁。ここは、百足だった。そして、まだ自分が生きていることに落胆を覚える。
 自分を覗き込んでいるのは、飛影と霊界にいるはずのコエンマだった。
「――オレ、生きてるんですね」
 ここに飛影が居るということは、飛影が珍しくお節介を焼いたのだ。百足の生命維持装置で、蔵馬の首の傷を治療したのだろう。
 よく躯が自分の治療を許したものだと、蔵馬は感心していた。
「貴様が、この程度で死ぬわけがない」
「オレ、死ぬつもりだったんですよ、飛影。……どうして、気付かないでオレを殺してくれなかったんですか?」
 蔵馬は自分だと知られないように、わざと草で攻撃しなかったのだ。
 そしてその目論見通りに、飛影は最初気が付かなかった。妖気も違えば、攻撃もいつもの蔵馬と全く違っていた。
 飛影は途中まで、取るに足らない低級妖怪だと、本当にそう思い込んでいたのだ。
「草が、オレの足を止めたんでな」
 蔵馬が呼び出した場所で草に邪魔をされた。となれば、蔵馬本人が何らかの関わりを持っているだろうと見当をつけるのは当然だ。
「そうか、無意識のうちに……」
 蔵馬にはその自覚が無かったと知り、飛影は訝しく思う。
「蔵馬の様子がおかしいのでな、ワシが飛影に気をつけて見てくれと言ったのだ」
「コエンマには、ばれてましたか」
 蔵馬は力なく笑った。ゆっくり体を起こす。
「コエンマは関係ない」
 飛影は吐き捨てるように言う。蔵馬の異変に先に気が付いたのが、コエンマだったということが気に入らなかった。
「……オレ、死のうと思ったんですよ。ただ、それだけなんです」
 コエンマは目を細める。蔵馬が自分から『死』を願うなどとは、考えられなかった。今まで蔵馬はどんな悪条件に立っても、起死回生の術を常に考え実践してきたのではなかったか。
 飛影の耳元に口を寄せ、コエンマは小さく囁いた。
「おい、飛影。蔵馬はおかしいぞ」
「ああ……分かっている。蔵馬、お前の妖気はおかしい。今までとかなり違う」
 飛影の口から、核心を尋ねる言葉が発せられた。
「……お前は、蔵馬か?」
 真っ直ぐに飛影に見据えられた蔵馬は、無感動な表情で飛影の姿を捉えた。まるで、飛影の質問を予測していたかのようである。
 そんな蔵馬の様子に苛立ち、蔵馬に詰め寄ったのはコエンマの方が先だった。
「蔵馬、何故そこで黙る?」
 飛影は逆に冷静だった。
「死にたいのか?」
 そう問うと、蔵馬は儚げに微笑んだ。
「――ええ」
 何か言いたそうなコエンマを、一瞥することで抑え、飛影は更に蔵馬を問い詰める。
「その希薄な妖気はその所為か?」
 少し首を傾げると、蔵馬は一言一言確かめるように答えた。
「正確に言うと違います。その、逆です。生きる気力が無くて妖力が希薄になっているんじゃなくて、妖気が無くなったから、殺して欲しいんですよ」
 コエンマは、こともなげに『殺して欲しい』という蔵馬の真意を測りかねていた。
「妖気が無くなった、だと?いや、今はかなり変質して弱くはなっているが、まだお前は生きておるだろうが」
 そう言いながら、コエンマは蔵馬の妖気が無くなったという言葉を聞き、もしかして……と嫌な予感を拭い去りきれないでいた。
 最初、蔵馬の異変に気がついたのはコエンマである。
 どんな者の妖気でも捕らえるはずの霊界のレーダーが、蔵馬のものだけを感知できなかったのだから。
「今のオレは、お情けで生かされているだけなんですよ……。オレはもう、死んでいるんです――」


≪≫≪≫≪≫


 疑問は最初から感じていた。
 あの日、蔵馬は母の入院している病院の屋上へ、霊界探偵の幽助を誘った。
「――彼女を、母さんを、助けたいんだ」
 本当に、ただそれだけが蔵馬の願いだった。
 手にした暗黒鏡が願いと引き換えに自分から奪うモノが、命であるということは知っていた。
『――この女の幸福な人生、それがお前の望みか――』
 暗黒鏡の問いかけに、蔵馬はうなずいた。
 幽助が蔵馬を引きとめようとして、叫ぶ。
「彼女が助かったって、お前が死んだら何にもなんねーじゃねーか!」
「それしか方法がないんだ」
 蔵馬は暗黒鏡に手をかざした。すると幽助はなんと、蔵馬からその全てを吸い尽くそうとする暗黒鏡に、自分も手をかざしたのだ。
「おい、鏡!オレの命を少し分けてやる!そうすれば、こいつの命、全部取らなくても願いはかなうだろう!」
 驚愕する蔵馬に対して、幽助は母親のためだと言った。
 蔵馬は何も言い返せなかった。
 確かに、母は自分が助かったとしても、一人息子が死んでしまったことを知ったら悲しむことになる。幽助の言うとおり、自分が死んでしまうことは母の本当の幸せではないのだろう。
 今更だが暗黒鏡に、自分という息子がいたことを忘れてもらうように、そう願えば良かったのではないかと悔やんだ。
 だがもう遅い。蔵馬は自分の掌から、生命力が吸い取られていくのを感じていた。だから、蔵馬は幽助の行為を拒みはしなかった。
 無関係な人間を巻き込んでいるのだと承知しながらも、これでしばらくの間だけでも自分が生きていられるなら、それが母の幸せに結びつくのならばと。
 結局、暗黒鏡は蔵馬から全ての生命力を奪いはしなかった。
 やはり、自分の命の足りなかった分を、幽助が代わりに暗黒鏡に与えてくれたのだと蔵馬は思う。
 寿命の長い妖怪とは違い、人間の命は短い。
 きっと、幽助から奪った命は、彼の人生のかなりの部分を占めているのだろう。自分と、自分の母のことをこんなにも気遣ってくれた恩人に対し、蔵馬は何と酷いことをしでかしたのかと自分を責めた。だがもう、後の祭りである。
 せめて、霊界探偵としての彼に協力することで、蔵馬は償いをしようと心に決めた。
 蔵馬は狐として、もう充分長い間生きた。
 いつ、死んでも良かったのだ。


≪≫≪≫≪≫


「オレはもう、死んでいるんです――」
 蔵馬がそのことに気付いたのは、霊界クーデターの少し前のことだった。
 普段から無意識のうちに、蔵馬は自らの妖気を抑えて生活していた。人間界で過ごすには、それが一番良い方法なのだ。
 とはいえ、自分の妖力が消えて無くなっているわけではない。
 だが、ある時突然、自分の妖気に違和感を感じたのだ。
 自分の中にあるべきものが無いような、喪失感と共に。
 妖力が必要な時は、使おうと思った瞬間にどこかからか沸いて出てくる。そんな、与えられているような感覚が、絶えず蔵馬に付きまとっていた。
「オレは、母の幸せのために、生かされているんですよ。暗黒鏡にね」
 そう、口に出して言ったのはこれが始めてだった。
 自分で確信はしていても言霊として発してしまえば、もう後には引けないような気がしていたからだ。
「――暗黒鏡、だと?」
「ええ、コエンマも覚えているでしょう?オレが、飛影達と組んで霊界から盗み出し、幽助に取り返された、暗黒鏡。それが、とうとうオレの命を奪い去ったということですよ」
 確か幽助の報告によると、蔵馬は自分の命と引き換えに『母親の幸せ』を願った。だが、その願いは幽助の助けがあって、叶いながらも蔵馬の命は奪われることなかったはずだと、コエンマは記憶している。
「だが……だが、お前は生きておるではないか?」
 それとも、ただの執行猶予だったのか。幽助がくれた命の分だけ蔵馬が生き永らえたら、暗黒鏡に命を奪われる――そういうことだったのか?
 コエンマは、はっとした。では、幽助の命もあとわずかなのか?
「では、幽助は……!」
「幽助は、もう死んでいるでしょう?」
 蔵馬は淡々と答える。
「魔界の穴が開いたあの時、彼は仙水に殺された」
 そう言った瞬間、蔵馬は飛影がすっと目を逸らすのに気がついた。
 あの、長い一瞬を思い出したのだろう。幽助の胸に、仙水の手刀が突き刺さった瞬間を。
「あれが、幽助の寿命だったというわけか。……そうか」
「コエンマも分かっていたはずです。……幽助の寿命は、あの時で終わるはずだった」
「むむ……」
 コエンマは納得したように、両目を伏せた。
 確かに霊界のデータではあの時、浦飯幽助は死亡する予定になっていた。だから自分は、あの場に急いで駆けつけたのではなかったか。魔界の穴が開く前に――幽助が殺される前に、仙水を魔封環で封印するために。
「そして……オレの本当の命は、もう尽きているんでしょうね。幽助が分けてくれて、暗黒鏡が取り損ねた命は、もう残っていないんです。でも、オレはまだここに存在している。それは、母の幸せのためなんです」
 蔵馬の確信に満ちた言葉に、コエンマは反論する気も起きなかった。
「お前の母親の『幸せ』には、お前が――つまり『南野秀一』が欠かせないというわけか……」
「オレを、お前だと分からないように襲ったのは、オレにお前を殺させるためか」
 今まで傍観者を決め込んでいた飛影が、やっと口を開いた。
「ええ、そうです」
 蔵馬はあっさりとそれを認めた。
「何を、死ぬだと?蔵馬、何を考えている!お前の願いが母親の幸せだとしたら、何を死に急ぐ必要がある!」
 自分に詰め寄って来るコエンマに、蔵馬は薄く微笑むと首を振る。
「オレは、今の『生かされている』状態に、我慢ができないんですよ。だから、飛影……貴方に殺されたかった」
 蔵馬は寝台の上に身を起こし、自分を見下ろす飛影をじっと見つめ返す。
「約束したでしょう?オレを殺すのは、貴方以外にいないと」
 そう言われて飛影は思い出していた。
 暗黒武術会の決勝戦が終わった後のことだった。
 傷だらけの蔵馬は、飛影にこう言ったのだ。
『オレは鴉に殺される筈だったんだ……鴉が、オレの死神だったんだ』
 飛影がつまらないことを言う奴だと思っていると、蔵馬は淡々と語り始めた。
『オレは随分長い間生きて来たんだ。妖怪の寿命は、人間のように定まってはいない。何故生きているのかも分からず、ただ生を繋ぐだけだ。だからオレは、いつかオレを殺す死神と出会うために生きているんだろうって、そう考えついたんです』
 飛影は蔵馬の哲学には興味は無かった。だが、蔵馬はその自分の『死神』とやらを、鴉だと思ったらしい。だから、生き延びたことが逆に喪失感を感じさせるのだと。
『オレは死を覚悟していたのに、結局生き延びてしまった……。オレの死神はどこにいるんでしょうね』
 バカバカしいと飛影は思った。生とは、他人の命を奪ってでも生きることだ。死を前提にした生など、飛影には理解できない。そんなくだらないことに、蔵馬が捕らわれていることが許せなかった。
 だから飛影は言ってやったのだ。
 オレがお前を殺してやると。お前は面白い奴だから、他の妖怪に殺させるのはつまらない。だから、オレがお前を殺すまで、お前は死ぬなと。
 蔵馬は一瞬驚いた顔をして飛影を見つめたが、すぐに楽しそうに口元に笑みを浮かべた。
『いいですね、それ。約束しましょうか、オレをいつか殺すのは、貴方だ』
 いつか――と言ったのだ。
 それは今ではないと飛影は思っている。少なくとも、自分から死を望む蔵馬に手をかけても面白くもなんともない。
「暗黒鏡なんかに、オレを殺されていいんですか?それとも、やっぱり殺せないんですか、オレを」
 横になっているよりも起き上がった方が、蔵馬の体の細さが強調されているようだった。
 小柄な飛影よりも、今の蔵馬は小さく見えた。
「オレは本調子でないお前と、戦うつもりはない」
 遠まわしに、飛影は蔵馬を殺すことを拒んでいるのだ。
 かつては、本気を出した蔵馬と戦ってみたいと思ったこともある。飛影も盗賊だ。伝説の極悪盗賊『妖狐蔵馬』とはどんな奴なのか、一度戦ってみたいと考えていあた。ひ弱な人間に乗り移っていると知った後でも、その考えは変わらない。
 だがそれは今、目の前にいる蔵馬ではなかった。
「本調子に戻ることなんて、もう、ありませんよ?飛影」
 だから、殺して欲しいと繰り返す蔵馬。
「何が、あった?」
 飛影は、本音など滅多に言うことのなかった蔵馬を問い詰める。
「……何って、オレが本当は死んでいて――」
「その後だ。何かあったんだろう。だから今、オレを挑発した。――違うか」
 飛影の考えは図星だったらしい。蔵馬は胸に手を当てると、考えるように飛影から視線を背ける。
「オレは……」
 そして、沈黙した。言おうか言うまいか、考えているようだった。
 いつものポーカーフェイスで誤魔化すのであれば、それでも構わないと飛影は思っていた。だが、今の蔵馬は明らかに迷っている。
 それは、本当は隠し事を暴いて欲しいということではないのか。
「まあ、待て飛影。蔵馬も今、目を覚ましたばかりだ。続きは後だ。暗黒鏡のことも調べねばならんし」
 俯いて黙り込んだ蔵馬を、コエンマは休むようにと促す。それに従い、蔵馬は再び寝台へ横たわった。
 飛影はそんな様子に構わず、更に蔵馬を問い詰める。
「これが、最後だ。何が、あった?」
「……オレ、疲れました。少し、眠っていいですか……?」
 容赦の無い問いかけから逃げるように、蔵馬は緑の瞳を閉じた。


≪≫≪≫≪≫


『生かされている』という状態に、オレは我慢できなかった。オレの自尊心が許さないのだ。
 それと同時に、これは賭けだった。
 母に、オレの正体を明かす、ということ。
 ずっと妖怪であることを隠し続けてきた。それが、母や家族たちに一番良い方法だろうと思っていた。人間として暮らし、人間のように年をとって生きる。
 オレにはそれができる。たとえ、本来の生を終えたとしても、それくらいの妖力は暗黒鏡がオレに与えてくれるだろう。
 きっと、母はオレの正体を知ったとしたら、騙されたことに憤りを感じるだろう。人間ならば当然の反応だ。人間だと、本当の息子だと思っていた者が、妖怪だったのだ。
 泣き叫んでオレを罵るだろう。恐れと不安で逃げ出すかもしれない。
 いっそ、その方がいい。
「母さん、話があるんだ。――オレ、実は……」
 母に疎まれたオレは、『母の幸せ』に不必要な存在として、暗黒鏡に命を吸い取られるだろう。
 それでこの事件は全て解決だ。
 だった、はずなのに。

「……気が付いていたわ。だって、私の息子のことだもの。秀一が、人間じゃないかもしれないって。狐、なのね……。お稲荷さんが、授けてくれた子だもの。そうなんだわ」

 オレは耳を疑った。母は取り乱すこともなく、それどころか嬉しそうに潤んだ瞳でオレを見つめている。

「私は元々体が弱くて、お医者さまにも子供を生むのは無理かもしれないと、そう言われていたの。私は、毎日お祈りしたわ。以前、勤めていた会社の近くに公園があって、その後ろの林の中に小さなお稲荷さんのお社があってね、私は毎日そこへお参りしていたのよ。何もしないよりは――ってね。でも、その甲斐あって、貴方を身ごもったのよ。だから、秀一が狐だって言っても、大丈夫よ。当然なんだわ。貴方は、お稲荷さんが授けてくれた子供だったんだもの。それに、魔界で傷ついた瀕死の貴方を、私の中に呼び寄せてしまったのが、もしかしたら私の『子供が欲しい』という願いの所為だとしたら、私の責任でもあるのよ。だから、どこかへ行ってしまうなんて言わないで。貴方は私の息子なのよ」

 母さんはオレを許してくれた。
 今まで通り、自分の息子としてこの家で暮らそうと、言ってくれた。
 笑っていた。
 オレが願ったのは、『母親の幸せ』だった。
 もしかしてこれも、その暗黒鏡の力のせいだろうか?
 母が幸せでいるために、暗黒鏡が母の心まで捻じ曲げてしまったのではないか?
 そう、母は自分でも気が付かないうちに、自分はこれで良いのだと思い込まされているのではないだろうか?
 息子の体を奪い、命を奪い、未来の全てを奪った妖怪のこのオレを許し、受け入れ、息子として認めてくれるという。

「大丈夫よ、秀一。貴方が何だって、私の息子なの。私が今まで育ててきたのは、間違いなく貴方なのよ、秀一――」

 その名前は、オレの物ではなかった。


≪≫≪≫≪≫


 妖力がほとんどない今の状態の蔵馬の頭の中を覗くのは、飛影にとって簡単なことだった。飛影は蔵馬が何を思い悩んできたのか、全て見ることができた。
 蔵馬は未だ目を覚まさない。百足の中で寝台に横たわったままだ。
 今までずっと隠し続けてきた秘密、自分が妖怪であるということを、蔵馬は母に打ち明けてしまった。
 飛影は、それだけ蔵馬が追い詰められていたのだということを知る。
 蔵馬は結局、母親の幸せよりも妖怪である自分のプライドの方を、優先させようとしたのだ。死んでしまっても構わないと考えるほど。
 自分に何も言わず、ことを済ませようとした蔵馬に、飛影は苛立ちを感じていた。
 もしかしたら、自分が蔵馬をそれとは知らずに殺していたかもしれないし、蔵馬が死んだことにも気が付かないでいたかもしれないのだ。
 苛々が治まらない。
 結局、蔵馬は暗黒鏡の力に負けたのだ。少なくとも本人はそう思っている。
 このままの状態が続けば、おそらく母親の寿命が蔵馬の寿命となるのだろう。母親が幸福な人生を送り年老いて死んでしまえば、蔵馬の存在理由が無くなるからだ。
「馬鹿か、貴様は」
 今まで蔵馬は、こんな風に弱みを見せることは無かった。
 傷つき死を目前にしても、蔵馬はそれから逃れる術をいつでも考えてきた。他人に弱い自分を見せる所など、飛影は見たことがない。
 それなのに、蔵馬は自分だけでなくコエンマにも、そんな弱さをさらけ出したのだ。
「……酷いなぁ、オレ、これでも結構考えたんですよ」
 眠っているかと思われた蔵馬が、突然声をかけてきた。
 体を起こす蔵馬を見据えたまま、飛影は蔵馬の言葉を鼻で笑った。
「考え付いて、このざまか。千年生きた妖狐も、案外つまらんものだな」
 蔵馬は力無く笑う。
「どうやったら、貴方が、殺してくれるかなぁって……」
「まだ、死にたいのか」
 懲りもせずにそう言い続ける蔵馬に、飛影は呆れ初めていた。
「死にたいのなら、自分で死ね」
「だって、オレ、もう死んでるんですよ。だったら自分の本当の最後くらい、自分で選べないかなって……そう思ったんです」
 蔵馬の望みは、飛影に殺されることだった。
 ずっと感じていたのだ。自分の千年以上に渡る『生』を断ち切るのは、きっと飛影のはずだと。そうであって欲しいという、蔵馬の願望だった。
 一度、冗談に見せかけて、そんな約束を飛影と交わした。蔵馬が笑うと飛影は、本気だと言ったのだ。
 蔵馬はその飛影の言葉を真摯に受け止めながらも、さも本気にしていなさそうに、再び笑いかけたのだった。
 飛影は、服のポケットに手を入れたままで突っ立っている。これ以上、蔵馬の話しを聞くつもりは無かった。
「オレは今、お前を殺したい気分じゃない。人間界へ帰れ。お前は、人間の匂いが強すぎる」
 飛影の拒絶に、蔵馬はゆっくりと寝台から起きだした。そして、自分が着せられている白い服を脱ぐと、傍らに置いてあった自分の服に手を伸ばす。
 蔵馬の首筋には、もう飛影の刃で付けられた傷跡は無かった。その傷があったはずの場所に指を添えながら、蔵馬は口の端を歪めて自嘲気味に笑う。
 服を脱いだ自分からは、飛影が言う通りに人間の匂いが漂っていた。
「このまま魔界にいたら、人間と間違えられて食べられたりしてね」
「何を言っている」
「でも、そうなったら、きっと飛影が助けてくれるんですよね?」
 服を着終えた蔵馬は、自分の血の染みを隠そうともしないで飛影へ向き直る。そして、飛影の答えを待った。
「さあな」
 飛影の答えは簡潔だった。
「ねえ、飛影。いっそのこと、オレを連れてどこかへ行きませんか?オレを攫いません?」
「くだらんことを」
 蔵馬の言うことをまるっきりの冗談だと受け取り、取り付く島も無い飛影を見つめながら、蔵馬は愛の言葉でも囁けば、飛影は本気にしてくれるのだろうかと思った。
 今までそんな甘い言葉、言ったこともなければ言うつもりもなかった。
 だが飛影が『畑中志保利の幸せ』を叶えようとする暗黒鏡の魔力に逆らって、自分を攫ってどこかへ連れて行ってくれれば、蔵馬は自らの死を望まなくてもいいかもしれないと。
 そんなことまで考えてしまい、蔵馬は自分を笑った。





Act.3


 躯を通じて、コエンマから飛影に呼び出しがかかったのは、数日後だった。
 どういうわけか呼び出された場所は、人間界の桑原の家。常であれば、飛影はその呼び出しを無視しただろう。あの家には、未だ打ち明けてはいないが、飛影の妹の雪菜がいる。
 だが、今の呼び出しならば話は十中八九、蔵馬のことに決まっている。
 桑原の家の側まで来たところで、近所の家の屋根の上から様子を伺っていた飛影は、同じ場所へ向かっていた幽助に見つかり、引きずられるように桑原家に入っていった。
「――暗黒鏡を、壊すしかない」
 今の状態の蔵馬を救うために考えついた、コエンマの結論はそういうことだった。
「へ?いいのかよ、あれって霊界の三大秘宝なんだろ?せっかく、オレが極悪盗賊から取り戻してやったってのに」
 極悪盗賊とは、言うまでも無く飛影のことだ。飛影は幽助を横目で睨んだが、当の本人は全く気にしていないらしい。
「それに、そん時、オレ暗黒鏡を壊しちまったぜ?それで、コエンマはお尻百叩きの刑になったんだよなぁ」
 ニヤニヤと笑いながら意地悪く言うと、今度は顔を真っ赤にしたコエンマの姿が見えた。
「いらんこと、思い出さんでよいわ!……あれは、ヒビが入っただけだ」
 霊界の三大秘宝を妖怪に盗まれたことが、閻魔大王にバレたコエンマは、思い出すのも恥ずかしい罰を受けたのだった。
「じゃあ、壊すってのは、どーゆーことなんだ?」
 霊丸で打っても、ヒビが入っただけだった。暗黒鏡はかなりの高度を持っている。鏡を割っただけでは壊したことにならない。では、どうすれば――。
「『無』に返すことだ」
 コエンマは無表情でそう言った。
 部屋の隅に腰を降ろしていた飛影が、片膝を立てて立ち上がろうとする。右手に握られた剣が物騒だった。
「……粉々にすればいいのか。なら話は早い。コエンマ、暗黒鏡をオレによこせ」
 飛影の申し出はすぐさま退けられる。
「それだけでは、ダメだ。再生不可能な状態にしなければならん」
「で、結局どーすんだよ?」
 投げやりな物言いの幽助に、コエンマは簡潔に答えた。
「創られる前の状態と、同じく戻してしまうのだ」
 その時、扉をノックする音が聞こえ、手にお盆を持った少女が入ってきた。
 この家に住んでいる雪菜だった。今ではすっかり、この家の一員として馴染んでいるようだった。一つ一つ茶を置いて回る。
「皆さん、お茶をどうぞ」
「あっ、雪菜さん。ありがとうございます、わざわざ持って来ていただいちゃって……」
 桑原が恐縮しながら茶を受け取る。
「いいえ、私にはこんなことしかお手伝いできませんもの」
「そんなこと、ないッスよ。もう、そこに居てくれるだけで、元気倍増、百人力ッスよ」
 腕を曲げてガッツポーズをとる桑原に、雪菜は微笑むことで返事を返した。
「和真さん、ありがとうございます。皆さんも、どうぞ……飛影さんも」
「……ああ」
 そうして出て行こうとした雪菜を、コエンマが引きとめた。ここへ座れと目の前を指差し、雪菜は素直にそれに従った。
「雪菜、今回ばかりはお前の協力が必要なのだ」
 雪菜はコエンマの顔を正面から見つめた。意外なことを聞いて、驚きの表情を隠せない。
「え?私の……」
「うむ」
「ど、どーいうことだ、コエンマ!まさか、雪菜さんに危ないマネを――」
 がばっと勢いをつけて立ち上がった桑原を、コエンマは片手を上げて制した。
 危険なことは無いからというコエンマに、不審の目を向けながら桑原はもう一度腰を下ろす。
「落ち着け、桑原。――あの暗黒鏡は、元々魔界で創られたものだった。それを霊界が手に入れたのだ。あの暗黒鏡の力の源は鏡の部分なのだが、その材料が氷河の国にあるのだ」
「私の国に?」
 雪菜は、意外な所で自分の故郷の名前が出てきたと、姿勢を正してコエンマの話の続きを聞いた。
「雪菜、聞いたことはないか?あの極寒の氷河の国でも、決して凍ることのない泉、『白虹』のことを」
「……ええ、確か長老の館の奥深くに、そんな泉があると聞いたことが――」
 記憶をたどり、雪菜はコエンマの言う泉のことを思い出そうとした。
 雪菜自身も『白虹』のことは、人づてに聞いた位しか知識を持っていなかった。
「そこは、長老しか行くことが許されておらず、特別な行事を行うときには、長老がその泉の表面に見える様々なもので、氷河の国の行く末を占うと言います」
 あの時が止まった国に、何の未来があるのか雪菜は常に疑問に思っていた。未来など占ったとして、本当に見えるのかと。
 コエンマは説明を続けた。
「霊界の長年の研究の結果、暗黒鏡の鏡は、その水を呪言で固めたものだということが分かっておる。ワシは、暗黒鏡をもとの水『白虹』に戻してしまおうと考えているのだ」
 いつの日か、暗黒鏡は処分してしまおうとコエンマは考えていたと言う。こんな物騒な魔道具はこの世には必要ないはずだった。
「それで、雪菜さんに……」
 桑原は納得したように何度も頷く。雪菜の方を見つめると、雪菜は心配いらないとでも言うように、にっこりと桑原に笑いかけた。
「暗黒鏡を泉に溶かし、もとの水に戻す。そして中に閉じ込められている魔力も、今まで願いを叶えたために奪われた命も、その願いそのものも全て解き放ってしまうのだ!」
 力説するコエンマに、幽助は前に乗り出しながら顔を輝かせた。
「そうすれば、暗黒鏡に取られちまった蔵馬の本当の命も、戻ってくるのか?」
「恐らくはな」
「――『願い』も、解き放ってしまうのか」
 その飛影の言葉を聞いて、幽助ははっとした。
「じゃあ、蔵馬の母親の命はどうなるんだ。暗黒鏡にかけられた願いは取り消されちまって、アイツの母親は死んじまうのか?」
 もっともな疑問だった。だが、コエンマはにやりと笑い、幽助に答えを返す。
「まあ、そっちのことはワシに任せてくれ。幸せな人生……とはいかないかもしれんが、普通の寿命程度に調整しよう。人間の命は、ワシの管轄だからな」
 決して、大声では言えないことだったが、今では、コエンマが霊界を統治しているのだ。人間一人の寿命をいじることぐらい、可能である。
「それって、ショッケンランヨーとかいう奴だろ?いいのかよ、そんなことして」
「ほう、幽助、そんな難しい言葉、良く知っとるのう。感心、感心」
「誤魔化すなよ」
「まあ、それくらい微調整の範囲じゃ。何せお前らに関わると、予定通りいくものもいかんからな。お前がいい例だ」
 それに……とコエンマは小声で続けた。
「蔵馬の、あんな姿は見たくないのでな。やはりアイツには、何でも知ってるような顔で、お前らの側に居て欲しいからのう」
 飛影に向かって、殺して欲しいと繰り返す蔵馬。
 コエンマは百足で見た幾分やつれた蔵馬の姿を、痛々しいと思いながらも目を離すことができなかったのだ。
「……そうだな。蔵馬がいねーと『なんでも屋』も廃業しなきゃなくなるからな」
 幽助はラーメン屋をしながら、妖怪関係の揉め事を解決する探偵のようなものをやっている。幽助の手に余る事件もままあるので、そういう時は蔵馬の助言は欠かせないものになっていた。
「雪菜には案内を頼む。長老しかその泉に行けないということは、難しいかもしれんが何とか頼むぞ。ワシも、霊界の名で依頼書でも書くとしよう。――魔界の煙鬼殿にも、頼んでみるか」
 やることはたくさんあると、コエンマはすっと立ち上がる。
「じゃあ、オレが雪菜さんにお供します!何かあった時には、この身に変えても雪菜さんをお守りします!」
 桑原も立ち上がった。雪菜を守るのは自分以外いないと思っている桑原は、胸をどんと叩いて自らをアピールした。
「いや、飛影に頼む」
 あっさりと自分の氷河の国行きを否定され、桑原はがっくりと肩を落とした。
「え?……でも、あの、氷河の国は男の方は……」
 氷河の国は男子禁制、コエンマがそのことを知らない筈が無かった。雪菜の言いたいことは予想していたのか、仕方が無いのだとコエンマは言った。
「暗黒鏡の鏡を固めている『呪言』は、炎系のものらしいのだ。恐らく、水と炎という合判する力でもって、魔力を封じ込めてあるのだろう。だから、飛影にはぜひ行ってもらいたいのだ。それに飛影、お前は以前氷河の国へ行ったことがあるのだろう?」
 飛影が肩をぴくりと震わせた。
 雪菜が自分を見つめているのが分かった。期待しているのだろう。飛影が一緒に氷河の国へ行ってくれるのを。
「不案内な者が行っても、もしもの時に対応できないとまずいのでな」
「――」
「よいな、飛影?」
 飛影は雪菜の視線を感じながら、コエンマに頷いた。


≪≫≪≫≪≫


 全ては蔵馬に何も知らされずに準備された。
 今の不安定な状態の蔵馬に、何を言っても無駄だろうと思われたからだ。
 氷河の国へ来たのは、三人。雪菜と飛影と躯だった。
 躯は初めて氷河の国へ降り立ち、雪の中の雪菜と飛影を無意識の内に見比べていた。
 白い氷女の装束をまとった雪菜と、黒い装束の飛影。誰がこの二人を兄妹だと気付くだろうか。
「雪菜、霊界の書状は持ってきたか?」
 躯の問いかけに、雪菜は胸を押さえて答えた。この吹雪で飛んでしまわないように、しっかりと服の中に入れてある。
「はい。ちゃんと」
「飛影も、暗黒鏡をちゃんと持って来たんだろうな?」
「当然だ」
 機嫌悪そうな、聞くまでもないといった様子の飛影に、躯はにやりと笑った。
「オレの方は、魔界の大統領、煙鬼の書状だ。……といっても氷河の国は、独立国家のようなものだからな。これが通用するとは思えん」
 雪菜もそれに頷いて同意した。
 氷河の国は、外の国とほとんど交友が無い。天空高くに浮かんでいるため、行き来するのが困難だということもあるが、それ以上に男子禁制という掟が外界との交わりを絶っている最大の理由だろう。
「はい……でも、なんとか分かっていただきます。蔵馬さんのためですもの。でも、躯様もご一緒してくださるなんて、私、心強いです」
「オレも、氷河の国には興味があったからな。お前の生まれた、女だけの国だ」
 そして、かつて躯の心を溶かした、氷泪石のある地だ。
 躯は、飛影の記憶で覗いたことがあった。氷に覆われた、凍てついた浮遊の地。男を拒否し、飛影をその高みから投げ捨てた、女の国。
 そこへ今まさに立っている飛影はどんな気持ちだろうかと、躯は飛影の頭の中を読みたくなる。
 黒衣の飛影は、白いこの国では明らかに異質なものだった。
 雪菜も飛影を見つめていた。
 雪菜は自分が捜していた兄が、飛影だということに気付いていた。そのことに飛影も、気が付いているかもしれない。
 いつか全てを話して、飛影と一緒に氷河の国へ行くことを考えていた雪菜は、こんな理由でその願いが叶ってしまい複雑な気持ちだった。
「……飛影さん」
 意を決して声をかけた雪菜に、飛影は無愛想に返事をする。
「なんだ」
「あの、ご存知のとおり、この氷河の国は女だけの国。男の方は、足を踏み入れることさえ禁じられています。色々とご不快なこともあるでしょうけれど、その、お気になさらないで……」
 そんなことは分かっていると、飛影は踵を返した。
「さっさと用件を済ませるぞ」
「――はい」
 歩き始めた飛影のすぐ後を雪菜が追う。飛影は町の方角を分かっているようだった。雪菜はやはり飛影はここへ来たことがあるのだと、確信を持った。
「つれないな、飛影。せっかく雪菜がお前に気を使ってやってるってのに」
 慣れない雪に足を取られながらも、躯がその後を追う。
「何故、お前も一緒に来た」
 煙鬼の書状なら、雪菜が持って行けばいいだろうと飛影は躯に言い放った。
「……面白そうだから、かな。それに、狐に恩を売っておくのも悪くないだろう?」
「とんだ、助っ人だな。……行くぞ」
 飛影の黒い衣が翻った。


≪≫≪≫≪≫


 町へ一歩踏み入れると、そこは好奇の視線で溢れていた。
 同じような顔をした白い着物の女達。氷女だ。
 始め遠巻きに見ていた女達の中から、一人前へ出てきた者がいた。その顔を見て、雪菜は気を引き締めた。どうやら知り合いらしい。
「――雪菜、お前、帰って来たのか?」
 同族とは思えない冷たい言葉に、躯は眉をひそめる。雪菜は分かっていたのだろう。
「すぐに、出て行きます。お気になさらないで……」
 特に気にするそぶりなど見せず、雪菜はその場を通り抜けようとする。
 躯が飛影に耳打した。
「……なあ、飛影。雪菜はあまり歓迎されていないようだな」
 氷女達が、後ろの躯と飛影に気が付いた。雪菜だけを見ていた女達は、妖気を抑えていた彼らを今まで気に止めていなかったのだ。
「後ろの者は、男ではないのか!?」
「雪菜!お前まで、男を引き入れたのか!」
 お前まで、と言うのは雪菜の母、氷菜のことを思い出しているのだ。
 かつて氷菜は氷女でありながら、外界の男と通じ忌み子を産んだ。その赤子は産まれてすぐさまに地上へと投げ捨てられたが、ここにいる氷女達は誰一人もその忌み子が、目の前の男だとは思わないだろう。
「私は、今日は『氷河の国』の雪菜ではありません。霊界の使者として来たのです。――長老にお会いしたいのですが、お取次ぎいただけますか?」
 雪菜は次々と罵りの言葉を投げかける女達に向かって、胸を張ってそう伝えた。
「――雪菜……」
 一瞬、しんと静まったその場から、誰ともなく声がかかった。
「そなたは知らんのだな。長老は、凍花様はお亡くなりになったのだ」
 雪菜はその事実に、驚愕の表情を隠せない。長命の氷女一族とはいえ『死』はあるのだ。雪菜の知る長老は、雪菜が幼い時から老いた姿で存在していた。これからもずっとそのままで長老として生きていくのだと、漠然と信じていたのかもしれない。
「お亡くなりに……」
「ええ、そして、今では私が長老の名を継いだのよ、雪菜」
 そう言って前へ出て来たのは、背が高くまだ若い一人の女だった。
 雪菜はその氷女を見た瞬間、息を止めてその姿に見入った。
「――泪さん!」
 母が死に、その後雪菜を育ててくれたのは、目の前にいる泪その人だったからだ。
 氷河の国の長には、係累はあってはならない。長命であるがゆえに、氷女達には血を分けた子供たちが大勢いる。そんな状態で長という立場に立っては、公明な統治ができなくなる恐れがある、というのがその理由である。そのため長老の名を継ぐのはなるだけ係累の少ない……つまり、子を産めない女が選ばれた。泪は、氷女では珍しい生まれながらの石女だった。
「長老から、直接に教えを受けたのは、今となっては私だけになってしまったから、私がこの氷河の国の長となったのですよ」
 雪菜は、これから交渉しなければいけない相手が自分の母親代わりの人だと知って、複雑な気持ちで立っていた。
 躯はそんな氷女二人を見ながら、飛影に小さな声で問い掛けた。 
「……おい、飛影。泪って女は、確か『氷菜』の友人だったっていう――」
「……」
 躯は飛影の記憶を覗いた時に、泪の存在を知ったのだ。氷女の長老の言葉に従い、忌み子であった飛影を崖から投げ捨てた女だった。
「これは、案外早く話しがつくかもしれんな」
「……ああ」
 無感動な様子の飛影を、躯は探るような目で見つめていた。飛影には、泪に対する特別な感慨があるのだろうと思っていたからだ。その様子を見てやろうと意地の悪い考えを持っていたのだが、躯は期待を裏切られた。
 長老――泪は、淡々と雪菜に問い掛ける。
「どうしたのです、雪菜。貴方が、外の者を連れてくるなんて」
 雪菜の後ろに立つ者の姿を見て、泪が怪訝な目を向ける。まず躯に、次に飛影に視線を向けると、泪は目を見開いた。
「それも……一人は男ではないですか」
 泪は飛影の姿をしばらく見つめると、雪菜に視線を戻した。何か言いたげな泪に向かって、雪菜は親しげな態度を改める。
「それは、これから説明します。大丈夫です。お二人とも、この氷河の国へ危害を加えに来たのではありません!」
 凛とした雪菜の声が、凍てついた空気の中に響いた。


≪≫≪≫≪≫


「……そう、そんな魔道具がこの氷河の国から、生まれたのですね」
 客人を館に案内し、泪はとりあえず話を聞くことにした。
 泪は目の前に霊界の陳情書と魔界の書状、そして暗黒鏡を並べた。その向こうには雪菜と躯と飛影が腰を下ろしている。
「ええ、ですから、どうか白虹の泉へ案内していただけないでしょうか?」
 泪は雪菜の依頼に即答した。否と。
「どうして!」
 雪菜の言うことは、全てとはいかないが理解した。だが、泪にも守らなければいけない掟がある。ただでさえ、泪は氷女の長老として犯してはいけない掟の一つを既に破ってしまっている。
 男をこの国に入れてはいけないということ。氷女を根絶やしにしてしまう恐れのある『男』という生き物は、この国に受け入れるわけにはいかないのだ。
 それを、長老である自分が黙認してしまっただけでも、重大な事件である。
「『白虹』は聖なる泉。そんな、未知の魔力や魂を、あの泉に与えるわけにはいきません」
 それは至極まっとうな話だった。暗黒鏡が今までどんな願いを叶え続けて来たかは、霊界でも全てを把握していないだろう。
 ほとんどの者は私利私欲に走り、金や力、権力を我が物にしようと満月に暗黒鏡をかざすのだ。蔵馬のように、他人の幸せを願う者ばかりではない。そんな者は稀だ。
 霊界でも完全に謎を解明することができない暗黒鏡などという未知の魔道具を、氷女達の神聖な場所へ持ち込むことは困難だった。
「お願いします。蔵馬さんは私を助けて下さった恩人で、大切な友人なんです」
 雪菜は両手をついて、頭を下げた。
「泪さん!お願いです、暗黒鏡は魔の鏡です。本当の願いを叶えるために、命を捧げなければならないなんて……そんな、悲しい道具は無くしてしまわなければ――」
 雪菜の瞳からは自然に涙が溢れ出していた。この魔界でも高値で取引される、氷泪石がこぼれ落ちる。
「母も――氷菜もそうだったんですよね、泪さん?母も、私と兄をこの世に生み出すために、自らの命を捧げたんです!」
「……氷菜」
 泪から、今は亡き友人の名が呟かれた。
 雪菜の母『氷菜』は、あろうことか外界の男に恋をし、子を身ごもった。産めば死んでしまうと分かっていたのに、それでも氷菜は自分の願いを貫いたのだ。
 そして生まれたのが忌み子の男児と、同胞の女児。
 氷菜は子供を産み落とした後、泪の目の前で息絶えた。
「そんな悲しいことは、終わりにしてしまわなければ……」
 雪菜の話はもう、暗黒鏡のことなのか、氷女の性のことなのか分からなくなっていた。
「雪菜、お前もこの氷河の国の掟を破るつもりなのですね?白虹は、長老しか訪れることが出来ない泉――」
 躯がその泪の話の腰を折った。
「だが、昔は誰かがその泉へ行ったのだろう?だから、あんな暗黒鏡が創られた」
 確かにそうなのだろう。長老自身が暗黒鏡に関わっていなければ、白虹の泉にはかつて誰かが訪れたことがあるはずだった。
 泪は躯の話をさらりと受け流し、そして雪菜に厳しく言葉を投げかけた。
「長老からの口伝では、伝えきれないほど昔の話でしょうね。……雪菜、良いのですか?お前は、再び掟を破ろうとしている」
 承知の上だと雪菜は答えた。
「私は、もう氷河の国の雪菜ではありません。私の故郷はここですが、私は、人間界を生きる場所に決めたんです。――今回のことが原因で氷河の国を追放されても、私はかまいません。それに今までも、そんな感じでしたもの。――やはり私が帰ってきて、他の皆は驚いていたようです。もう、私は帰って来ないものだと思われていたようですね」
 忌み子と共に生を受けた雪菜は、この国ではやはり異質な存在だった。本来ならば、外界の男の子供を身ごもった女は、忌み子である男児のみ産み落とす。雪菜のような女児は生まれて来ないはずだなのだ。
 雪菜はずっと、自分の居場所を捜していた。人間界で闇ブローカーに捕らわれた時も、そんな時のことだった。
「この国を出たがる女はいない。なのに、貴方は進んで自らが出て行った。皆、そう思っても仕方がないでしょう。私も、貴方が帰ってくるとは思わなかった。それも、こんな客人をつれて……」
 そう言って泪は、躯ではなく飛影の方へ目を向けた。
 泪もまた、飛影が誰なのか気が付いているのかもしれない。
「……良いでしょう。貴方が、それだけの覚悟をしているのであれば、一度だけなら白虹の泉へ案内しましょう。長老としての言葉で言うのならば、霊界や魔界の大統領とやらに恩を売っておくのも悪くないと言ったところかしらね」
 今まで無表情を貫いていた泪が、ふと顔を綻ばせた。
 雪菜はそれを見て、肩の力を抜く。
「泪さん……いえ、長老、ありがとうございます!」
 何度も頭を下げる雪菜の後ろで、躯は一度、軽く頭を下げた。飛影は微動だにしない。そしてその視線の先には、泪の姿を見据えていた。
「では今夜、ご案内しましょう。皆が寝静まった頃に。他の者に見咎められると後々面倒ですので、皆に悟られないように――」


≪≫≪≫≪≫


 雪菜達は帰ったと見せかけて夜が更けるのを待ち、泪と落ち合った。凍らない泉『白虹』へ行くためである。
「こちらです。足元にお気を付けください」
 泪が案内した場所は、氷河の国のほぼ中心地。長老の館の後方にそそり立つ岩山だった。そこに長老しか知らない迷路のような洞窟があるのだ。そして泉はその中に湧き出ている。
 洞窟の中とはいえ、氷河の国は氷点下の世界だ。本来であれば、泉の水は凍りつくはずだったが、何故かその泉だけは凍ることはないという。
「……こんな場所が、この国にあったなんて」
 雪菜は素直に驚きの言葉を発した。躯は一言、寒いとだけ呟いた。
 飛影は終始、無言である。
 人の通った気配の無い雪道を行くと、一行の行く手に氷河の国に相応しくないものが見えてきた。
 最初に気が付いたのは、躯だった。
「ん?何だ、アレは」
 泪が声を上げ、立ち止まった。
「……あんなもの、以前ここを訪れた時は無かったのに!」
 雪菜もその異変に気付く。
「泪さん、あれはもしかして、私が以前持ってきた――」
 泪が指し示した洞窟の入り口らしき場所は、氷河の国では滅多に見ない緑色で覆われていたのだ。
「蔵馬、だ……!!」
 飛影の口から意外な人物の名前が飛び出て来て、躯は立ち止まり振り返った。
「何!?」
「ええ、間違いありません。私が、蔵馬さんから頂いたんです。氷河の国のような寒い場所でも花をつけるからと……。だから私、泪さんに差し上げたんです。もう、随分前のことですけど……」
 雪菜が捕らわれていた垂金の屋敷から助け出され、氷河の国へと帰る時のことだった。蔵馬から小さな鉢植えをもらったのだ。氷河の国でも咲くことができる花を。
 蔵馬にしてみれば、ずっと捕らわれていた雪菜の心を、和ませようということだったのだろう。
 泉に続く洞穴の入り口をびっしりと覆っているのは、蔵馬の妖気の匂いがする花の蔓だった。抱える程の太さがある緑の蔓が、何十本も絡み合って洞窟を塞いでいた。
「畜生!こんなところで!」
 飛影は腰の剣を抜き、躊躇することなく蔵馬の花へと切りつける。鈍い音と共に緑の蔓は切り刻まれた。ぼとりと地へ落ちたかと思うと、蔓は切られた個所からメキメキと音をたてて再生を始める。
 躯も自らの力でもって、蔓を切り開こうとした。躯には空間を切る能力があるのだ。だがそれも、飛影の剣と同様の結果だった。
「――いかん、切った片っ端から、再生していく!とんでもない再生能力だ」
 飛影は剣に、自らの炎の妖気を込めた。
「……邪王炎殺剣!!」
 鋭い切っ先と共に、飛影の妖気が炎となって蔓を切り裂き焼き焦がす。その余波が吹雪の中を舞った。
「きゃっ!」
 側にいた、炎に弱い雪菜にその炎は降りかかった。
「雪菜!……ちっ!」
 飛影は炎の妖気を一旦収める。
「まさか、あの狐がこんなことを見越して、雪菜に花をやったわけではないだろうな」
 躯の言葉に飛影はハッとした。
 蔵馬は、暗黒鏡に『生』を操られていると言った。これも、そうなのかと。
 ここで蔵馬の花に、暗黒鏡を無に返すことを妨げられているということは、蔵馬の無意識の力が働いているのは間違いなかった。
 暗黒鏡の破壊を阻止するために、未来を無意識の内に見越して雪菜に花を与えたのだ。
 そしてそれが次代の長老、泪に渡ることも!いや、逆なのか?雪菜に親しい……蔵馬の花が渡る可能性がある氷女が泪だったから、泪が長老に選ばれたのか?
 飛影はそんな暗い考えに陥りながら、剣を振るった。
「……畜生!」
 蔵馬の防御は、完璧だった。


≪≫≪≫≪≫


「……あれから私、もう一度、氷河の国へ行きました。そして、泪さんに会ったんですけど、泉は今までのように静かだったそうです。やっぱり、あの時だけだったんです」
 もうそれ以上、雪菜に言われなくても飛影は理解していた。
 あれは、蔵馬の無意識の抵抗だったのだ。口では何と言っていても、蔵馬が望んでいるのは母親の幸せだった。
 飛影は久しぶりに蔵馬の家へ行く決心をした。
 空には赤みがかった満月が高く昇っており、飛影の機嫌を悪くさせる。あの月が、暗黒鏡の願いを叶えるのだ。
 いっそ月を破壊してしまえば、暗黒鏡もその存在意義を失うだろうと、飛影は物騒なことを考えながら蔵馬の家の屋根に降り立った。
 すぐに気が付いた蔵馬が、その窓を静かに開けた。
「……あれ?飛影、久しぶりですね。最近ここに来なかったのに」
 数週間ぶりに見る蔵馬はいつも通りで、穏やかな笑みを飛影に向ける。
 ついこの間、自分を殺して欲しいと訴え、取り乱したヤツと同一人物だとは思えない程だ。
 蔵馬の部屋を訪れると、蔵馬の家に張り巡らされている結界は健在だった。ある意味、更に強固になっているのかもしれない。
 強大な妖気を失った蔵馬自身を守るために。そのための力ならば、暗黒鏡は際限なく与えてくれるだろう。
 飛影は、氷河の国での出来事を淡々と語った。
 暗黒鏡を消滅させるため、無に返すために氷河の国へ行ったこと。そこで、思わぬ邪魔が入り、目的をなし得なかったこと。
 そして、その邪魔とは蔵馬自身であったこと……。
「――そう、ですか。オレには全く自覚が無いんですが……、ははは、そうか……オレは自分で死ぬことを許していないんですね……」
 先ほどまでの穏やかな笑みは、除々に引きつり始めた。
「自分が死ぬつもりは無いというのに、オレに殺して欲しいなどと言うとは、矛盾というやつではないのか?」
 飛影は蔵馬の次の行動を、図りかねていた。
 元々蔵馬は何を考えているか分からないことが多かったが、今回の出来事は蔵馬自身も自分が何をしているのか分かっていないのだろう。
「自分で死ねないからですよ。だから、貴方にお願いしたのに」
 最初、感情がこもらない声で話していた蔵馬だったが、段々と高ぶっていく。
「オレを殺してくださいって、何度も言ってるじゃないですか!?それでも、それなのに、オレを殺せないのは……貴方も暗黒鏡に操られていないっていう保証は、どこにも無いでしょう?」
「オレが操られているだと!?」
 意外なことを言われ、飛影は眉を吊り上げる。飛影は自分の行動は全て自分自身の物だと確信している。それを疑われるとは、相手が蔵馬でも聞き捨てならない言葉だった。
「……ええ、そうです。貴方は操られているんだ、暗黒鏡に」
 蔵馬はもう一度はっきりと言った。
「オレが、こんなに弱音を吐いて、無様な姿を貴方に曝しているっていうのに、貴方はそんなオレが目障りじゃないんですか?昔の貴方だったら、こんなオレはすぐに殺されていたはずだ」
 蔵馬の言う通りだった。気に入らない者は切って捨てる。それが飛影の生き方だった。
 だが、今の蔵馬がどんなに無様であろうとも、飛影には蔵馬を殺すことは考えられなかった。
 歯牙にかける程では無いと言いながら、本当はそんな考えでは無いことを飛影は気付いている。では蔵馬を殺せない――殺したくないという思いは、一体どこから来たのか。
 飛影はその、『蔵馬を殺したくない』という気持ちは、嫌いでは無かった。
 だが蔵馬は、その飛影の感情を暗黒鏡に操られているせいだと言うのだ。
「なのに、貴方はオレを殺すどころか、放っておいてもくれない。あげく、貴方に曰くの深い氷河の国へ行ってまで、オレを助けようと……そんなこと、あるわけないのに……!」
 蔵馬は自分と雪菜を比べた時、飛影が選ぶのは迷うことなく妹だろうと思っていた。飛影が抱えている、故郷と妹と母親に対する複雑な感情は、蔵馬には伺い知れない。
「オレは自分を、貴方が『雪菜』と一緒に氷河の国へ帰る――、そんなことをしてもらえる程の存在じゃないって、そう思っていたのに……」
「大したことじゃない」
 飛影は自然にそう答えていた。
 飛影にとっては、自分が雪菜から氷泪石を受け取り、魔界の躯の所へと向かったあの時に、自分と雪菜との決着は付いたも同然だった。
 だから、自分自身の氷泪石が無くても、もう良いような気持ちを抱いたのだろう。
 そして先日、雪菜と共に氷河の国へ向かった時、確かに不快感はあったが、ただそれだけだった。
 あそこは確かに自分の生まれた場所で、同時に自分が捨てられた場所だったが、今となれば何の感慨も無い。何の未練も無かった。
 自分は氷河の国に帰ることなど必要ないし、雪菜もまた自ら氷河の国を決別した。
 それよりも飛影は、自分と雪菜の関係に深く立ち入ろうとする蔵馬をうっとおしく思う。
「本当に?貴方にとって、雪菜は特別な存在のはずだ」
「……雪菜は、自分の生きる道を自分で決めた。オレが干渉することはない」
 自分の生きる場所は人間界だと、雪菜は泪の目の前ではっきりと言ったのだ。誰に強制されることも、氷河の国の掟に縛られることも無く、自分の意志で生きることを雪菜は決めた。
「だったら、オレにも自分の生きる道を選ばせて下さい。――貴方に、殺されて死ぬという道を!」
 雪菜を引き合いに出され、飛影は蔵馬の話を聞くことに苛立ちを感じ初めていた。
「今は、その時ではない」
 緑色の瞳を伏せて、蔵馬は悲しげな顔を見せた。そして、震えるように首を何度も振った。
「飛影……こんなに無様なオレでも、殺したくならないんですか?そんなこと、有りえない。そんなの、貴方じゃない!」
 蔵馬が飛影を否定する言葉を発した瞬間、飛影が体から炎の妖気を噴出した。
 自分勝手な考えを一方的に訴える蔵馬に、飛影の感情がピークに達したのだ。これが、あの妖狐蔵馬のなれの果てかと思うと、飛影の胸に怒りが芽生えた。
「それ程言うのであれば、今ここで殺してやろう!」
 今の蔵馬を殺すのは、赤子の首を捻るようなものだった。
 蔵馬がはっと気付くと、既に飛影の手が自分の首に回っていた。
 体は小柄な飛影ではあったが、常に剣を振るう者にふさわしい力でもって、蔵馬の白い首を締め上げた。
 片手で充分だった。
 衝動的な怒りに任せ、蔵馬の首に手をかけている飛影の紅い瞳に、ぐったりと力の抜けた蔵馬の姿が映っていた。
 首を締め上げられ苦しいはずなのに、どこか安らかな喜びさえ湛えた微笑を見た飛影は、自分でも忘れていた古い記憶を思い出していた。
 自分を生んだ氷女の最後の姿を。
 忌み子を産み落とし、死を覚悟した母親の顔だった。
 飛影の手は止まっていた。それ以上、力が込められることはない。手を離すと飛影の妖気のせいで、赤い火傷のような跡がくっきりと残っていた。
 蔵馬は死んではいない。気を失っているだけだった。
 飛影はそんな蔵馬を寝台の上に寝かせると、その相変わらず美しい容貌をしばし見つめた。
 やはり、似ていると思った。
 蔵馬は雪菜に似ている。つまり、その母親『氷菜』にも似ているということだ。
 今、飛影の手を止めたのは、遠い母親の記憶だった。まだ蔵馬が暗黒鏡に願いをかけるずっと前のことだ。
 本当に蔵馬が言うように、飛影が暗黒鏡に操られて蔵馬を殺せなかったのであれば、その理由は別なものではなかったのか。
「無様だな」
 取り乱し、飛影に死を乞う蔵馬が無様だった。
 そして、そんな蔵馬を目の前にしながら、今更思い出した遠い母の記憶のせいで、蔵馬を殺してやれなかった自分も無様だった。
 飛影は、浅い息を繰り返す蔵馬の唇に自分のものを重ねた。重ねるだけの口付けを与えると、飛影は部屋の窓へ足をかけた。
 そして、一度も振り返ることなく、飛影は蔵馬のもとを後にした。
 月が、去っていく飛影の姿を照らしていた。




Act.4


 飛影はその後、蔵馬のいる人間界へ足を運ぶことはなかった。
 何度か蔵馬の方から百足に訪ねて来たことはあるが、飛影はその度に姿をくらましていた。
 人間界と霊界と親交を結びつつある魔界は、徐々に穏やかな世界へと変貌していった。
 それがつまらない――というのが、飛影が未だ変革の影響を受けない、魔界の下層へと頻繁に足を運ぶ理由だった。だが躯に言わせれば、蔵馬と顔を合わせたくないだけなのだ。
「会ってやったら良いだろう?」
 無責任にそう言う躯を、飛影は睨みつけた。
 その蔵馬の足が途絶えてから随分経った。最後に飛影が蔵馬の部屋で別れてから数えると、もう三十年以上を過ぎていた。
 飛影は蔵馬と二度と会うつもりは無かった。いずれ蔵馬は母親の死と共に、死ぬ。
 蔵馬の死は、お節介な誰かが飛影の耳に入れることになるだろう。
 それで良かったはずなのだが、霊界の新しい王は飛影が思うよりもずっと、お節介だった。
「……さっき、霊界のコエンマが来てたぜ」
 飛影の部屋を訪れた躯は、寝台の上で退屈そうに寝転がっている部屋の主に声をかける。
 面白そうに笑う躯を見て、飛影はまた何か霊界がやっかいごとを頼みに来たのかと思った。
「オレは今、くだらんことに付き合う気分じゃない」
 ごろりと反対側を向いてしまった飛影に躯は、まあそう言うなとコエンマからの伝言を伝えた。
「明日、だそうだ」
 ただそれだけを告げられ、飛影は目線を躯に向ける。
「何がだ」
「『畑中志保利』の死亡予定日だ」
「……!?」
 今、躯が言った名前は、飛影の脳裏から消え去ることは無かった、蔵馬の――南野秀一の母親のものだった。
 飛影は勢い良く飛び起きる。そして興味深そうに自分を眺めている躯を睨みつけた。
「あの狐の命も、明日限りか。人間の寿命は短いからな。――早いもんだ、なあ飛影」
 早かったと、飛影もそう感じた。人間の寿命としては平均なのだろうが、種族によっては千年を軽く生きる妖怪達にとって、百年足らずで死んでいく人間のなんと儚いことか。
 そんな人間と、蔵馬は命を共にしてしまったのだ。
「そうか」
 飛影はそれだけを言うと、再び寝台に寝転がった。天井を見つめたまま、動こうとしない。
「行かないのか?」
 躯は一応聞いてみたが、飛影の返事は素っ気無いものだった。
「……オレには関係ない」
 反応の無くなった飛影に飽きたのか、躯は無言で部屋を出て行った。
 飛影はその足音が遠くなるのを確認すると、音も無く起き上がり、傍らに置いてあった愛用の剣を手に取った。


≪≫≪≫≪≫


 飛影は、数十年ぶりに人間界へ足を運んでいた。
 蔵馬の部屋から去って以来、飛影には人間界を訪れる理由が無くなっていたのだ。
 唯一の気がかりである雪菜のことは、躯が飛影の反応を面白がって遠見鏡でしょっちゅう覗いては飛影に教えていたので、飛影自身は人間界へ赴くことが必要無かった。
 以前とは違い、今では普通に妖怪が町を歩いている。魔界と霊界の試みは成功しているようだった。
 蔵馬の家に近い木の上で、飛影は一度立ち止まった。その木を縄張りにしている妖怪が飛影にちょっかいを出そうとしたが、すぐにその妖気のレベルの違いに気付き、そそくさとその場所を空け渡して去って行った。
 飛影は、額の布を取り去って蔵馬の家を邪眼で覗いた。と、蔵馬がいつもの窓から身を乗り出し、空を見つめているのが分かった。
 蔵馬の姿は、あの時……最後に会った時のままだった。
 自分が妖怪だということを告白してしまったために、いつわりの姿で誤魔化す必要が無くなっていたのだ。
 少し長くなった赤みがかった長髪と、大きな緑の瞳。今だ少年のような姿の抜けきらない、細い体。女性と見紛う、その容貌。
――蔵馬だった。
 久しぶりのその姿をしばらく見つめたままだったが、飛影は意を決したように強く木を蹴り、宙に舞った。


≪≫≪≫≪≫


 邪眼で蔵馬の姿を捉えたまま、飛影は家々の屋根を飛んだ。
 しばらくして蔵馬の家の近くまで来ると、やっと蔵馬は飛影が近づいて来ていることに気が付いたらしい。
 邪眼の中で、蔵馬は飛影の方向を見て微笑んだ。
 肉眼でも充分見える位置でまで来ると、飛影の飛ぶスピードがわずかに遅くなったが、蔵馬はそれでも穏やかに微笑んで、じっと飛影を待っていた。
 音も無く蔵馬の目の前に降り立った飛影は、久しぶりに会う蔵馬の姿を頭の先からつま先まで舐めるように眺めた。
 変わっていなかった。最後に会ったあの日から。
「……飛影だ、本物ですよね?久しぶり――」
 蔵馬は落ち着き払っていたが、自分の母親が明日死ぬということは気が付いているはずだ。
 コエンマの話では蔵馬の様子が不安定だったのは、あの時、飛影に殺して欲しいと迫った時だけだったという。
 飛影と会わなくなってから落ち着いたということは、自分を殺して欲しい相手が、目の前にいなくなったせいなのかもしれない。
 蔵馬は飛影に手を伸ばしてきた。
 最後の別れ際に蔵馬の首に手をかけたのは飛影だったのだが、蔵馬は微塵も恐れる様子がない。
「……少し、背、伸びました?」
 そう言われればそうかもしれないと、飛影は今気が付いた。蔵馬の部屋の窓をくぐる時、以前よりも狭く感じたのだ。
「そうか」
「ええ、そうですよ」
 それだけを口に出し、蔵馬は黙って飛影の顔を見つめている。かつてであれば、煩いほど話し掛けてくるはずの蔵馬だった。だが会話が途切れてしまい、飛影は他にすることも無く部屋の中を見回した。
「……幽助の妖気が、残っているな」
「ええ、一昨日ここへ来てたんです。雪菜さんも一緒でしたよ。今では桑原君と幸せに暮らしているようですし」
 雪菜のことは知っていた。躯が一々飛影に報告していたからだ。それは善意で、というわけではなく、躯はただ飛影の反応が面白かっただけなのだが。
「――お前の母親は……」
 蔵馬の肩がぴくりと動いた。
「ここには、いないようだな」
 慎重に言葉を選んで話し掛けてくる様子に、飛影が自分に気を使っているのが分かり、蔵馬は嬉しいような寂しいようなどちらとも言えない気持ちを感じた。
「病院に、入院してるんですよ。貴方も知っているんでしょう?――彼女の命が、終わりに近づいているって。だから、貴方が来た……」
「お前のその澄まし面も、見納めかと思ってな」
 ようやく飛影の相変わらずな口調を聞いて、蔵馬は顔を綻ばせた。以前のままの飛影が居てくれることが嬉しいのだ。
「嬉しいですよ、オレ。貴方に避けられていると思ってたから、最後に貴方に会うことが出来て」
 最後だと言う蔵馬の顔には、悲壮感も何も見えなかった。飛影は本当に明日、目の前の蔵馬が『本当の死』を迎えるのだということが信じられない。
「……コエンマから聞いたのか?」
「いいえ――それくらい、オレにだって分かります。母さんの命は早くて明日、終わるんでしょう。人間としては、平均的な寿命だと思いますよ。それに、普通の人間としては幸せな人生だったでしょうし……」
 優しい夫に恵まれ、血は繋がらなくても息子には可愛いお嫁さんが来てくれて、孫も生まれた。経済的にも問題なくて、老いて死のうとしている今も、心配して見守ってくれている人達がいる。
 たとえ自分の息子が妖怪だとしても、おつりが来るくらいの幸せなのではないかと、蔵馬は信じたかった。
「オレ、本当に貴方に会えて嬉しいんですよ。貴方には、みっともない所を見せてしまったし、無茶なお願いなんかもしてしまって……」
 何度も自分を殺してくれと、飛影に願った。自分の首に手をかけておきながら、そのまま姿を消してしまった飛影を追った行こうかとも考えた。
 今では、あの時殺されなくて良かったかもしれないと、思うことができる。
 母の幸せそうな笑顔と、妖怪である自分を認めて受け入れてくれた義父と義弟。それは、暗黒鏡の所為かもしれないという疑念は未だにあったが、間違いなくここは蔵馬が居ても良い場所だったのだ。
 だが、それと同時にやはり蔵馬は飛影に自分を殺して欲しかった。
 おそらく明日、暗黒鏡によって命を奪われるその瞬間を、飛影に導いてもらえまいかと――。
「ねえ、飛影。久しぶりにウチでご飯食べていきません?オレ、腕を振るいますから」
 蔵馬はそんな考えを悟られないように、明るい声で飛影を誘った。
「コエンマが持って来てくれた、結構良い酒があるんです。……コエンマも、オレに気を使ってくれてるんですよ」
 霊界の新王は、責任感の強い人物だ。直接自分が関わった事件の結末に、心を悩ませているのだろう。
 だが全ては蔵馬が自分で考え、自分で行動したことだ。病気の母親を救うために、自分の命を差し出した。コエンマには責任は無いのだ。
「暗黒鏡の研究は、今でも続けているようですけど……オレは、いいんですよ、もう。オレのプライドなんて、オレが本当の息子の命を奪ってしまった母さんへの罪滅ぼしだと思えば、なんともないんです。そうでしょう?」
 そう飛影に同意を求めるように言ったが、蔵馬は飛影の返事が欲しかったわけではない。
「もう、いいんです。……飛影、オレ、貴方に会えて嬉しかったんですよ。だから、もういいんです」
 自分に言い聞かせるために、何度も繰り返して呟いた。
 

≪≫≪≫≪≫


 白髪の老女が白い寝台の上に横たわっていた。老いているとはいえ、その顔立ちから若い頃はかなり美しかっただろうということが見て取れた。
 蔵馬の義父と義弟は、今は席を外してくれている。蔵馬の母、志保利がそう頼んだのだ。
「……秀一」
 か細い声で名を呼ばれ、秀一――蔵馬は母の顔を覗き込んだ。
「なんだい、母さん?」
「秀一……いいえ、『蔵馬』――貴方は、今まで幸せだった?」
 その名を母に呼ばれたのは、全くの初めてのことだった。蔵馬は我が耳を疑うしかない。
 息子がほんの少し取り乱してしまったことを、志保利は気が付かなかった。
「何を言ってるんだい、母さん。オレは、母さんが幸せならそれでいいんだよ」
 微笑む蔵馬を見つめ返し、志保利は力弱く首を振った。
「今まで、私に縛りつけてしまって、ごめんね。……元の世界に、戻りたいんでしょう?」
 元の世界というのは魔界のことだろう。だが、別に蔵馬は魔界に未練はない。未練があるとすれば……。
「いいのよ、元の世界に戻って。私は、もうすぐ、死ぬだろうから」
 母の口から信じられない言葉が飛び出し、蔵馬は慌てて志保利を宥める。
「死ぬだなんて、何言って……」
「分かるのよ、あの時もそうだったわ。――昔、貴方がまだ高校生だったころ、病気をこじらせて入院したわよね。あの時、私はもう自分が死ぬのだろうということを、なんとなく感じていたの……」
「母さん……」
 蔵馬は今度こそ驚いている顔を母に見せてしまった。これが、人間の第六感なのだろうか。
 蔵馬は今もあの時も、母の側から死の影を振り払うことに必死だったというのに。
「――あの時、私は貴方を残して死にたくなかった。……貴方は高校生にしては、よく出来た子だったけど、それでも子供には違いなかったもの。他に身寄りも無く、これから貴方がどうやって一人で生きていくのか、とても不安だったのよ。だから私は……あの人に縋ったんだわ」
 あの人、というのは今の義父のことだ。
「母さん……あんまりしゃべると疲れてしまうよ」
 母の体を気遣う蔵馬だったが、志保利は話すことを止めなかった。
「貴方を一人にしないために、自分が死んでしまうと分かっていても、私はあの人との結婚を諦めることが、出来なかったの……!私は、自分勝手だったのよ……」
「でも、母さんは義父さんのこと、好きだったんでしょう?」
 自分を責める言葉を紡ぐ志保利に、蔵馬は笑顔で問い掛けた。志保利もつられて、表情がふわりと綻んだ。
「……ええ、ええ、もちろんだわ」
 蔵馬は安心したように、息を吐いた。そして母親の細い手を取ると、柔らかく握り締める。
「だったら、いいじゃない。それに、オレはもう一人で生きていけるよ。――妖怪だしね。母さんが心配することは、何も無いんだよ」
 オレはもうすぐ死ぬのだから、とは言えない。
 母、志保利の人生が終わると同時に、蔵馬のかりそめの命はあの暗黒鏡に吸い取られるのだろう。
「秀一……大丈夫よ、貴方はもう一人じゃないんだから。父さんもいるし、あの子、秀一さんもいるし、その家族もいるわ」
 皆には、妖怪の自分を受け入れてもらい、蔵馬はとても感謝していた。妖怪という存在が世間に認知され始めた頃、蔵馬は自分の正体を明かした。さすがに多少の戸惑いは見受けられたが、それでも蔵馬を邪険に扱うことはなかった。
「……秀一、貴方は、妖怪の仲間で一緒にいてくれる人はいる?」
 意外な質問に、蔵馬は目を見開く。
「え?」
「いずれ、あの人も秀一さんも死んでしまうわ。人間だから、きっと貴方よりもずっと寿命は短いはず。……だから、貴方には――『蔵馬』には、一緒にいたい人はいないの?好きな、人は……?」
 母にそう訊ねられて蔵馬の心の中では、今まで共に戦った仲間の顔が幾つも現れては消えていった。その中でも一際、目の印象の強い彼の姿が一人残る。
「……うん、いるよ。母さん」
 ほんの少しはにかんだように答えた蔵馬を見て、志保利は声は出さずに笑った。
「そう……良かったわ。そういえば、貴方とこんな話をするのは、初めてかもしれないわね」
「そうだね。そういえば」
 そうして普通の親子のように、二人は最後の時を過ごした。
「貴方の、大切な人といつまでも幸せにね……」
「母さん……オレは」
 貴方を追うように、命を奪われるのだ――と、全てを明かしてしまいたい衝動に駆られ、蔵馬は自分を押さえ込んだ。決して言ってはいけないのだ。母の幸せのためにも。
 強張った顔で俯いた蔵馬をどう思ったのか、志保利は細くそれでいて優しい手で、蔵馬の頬をゆっくり撫でた。
「貴方が幸せになってくれることが、私の一番の幸せだわ。そう、願ってる……」
 蔵馬はその母の手が、いつまでも自分を撫でていてくれることを願った。
 だが、それを遮る者が現れた。
 病院の窓の外から船の櫂に乗った少女が、じっと蔵馬を見つめていた。霊界案内人だった。
 蔵馬の知らない顔だったが、それが逆に蔵馬を安心させた。
 蔵馬は自分の手の中で、母親の体温が徐々に消えていくのを黙って感じていた。




Act.5


「――オレは、結局、死ななかったんです」
 母、志保利の葬式を済ませてもう十日が経った。だが、蔵馬は蔵馬として存在を続けていた。
 蔵馬は、自分が死ぬものだとずっと思っていたというのに。
 自分が暗黒鏡に望んだのは『母の幸せ』。だから、母が平凡ながらも幸せな人生を終えれば、きっと自分の存在理由が無くなり自分は死ぬのだろうと。
 今ではそれを、心待ちにしていたのだ。
 なのに蔵馬は生きている。
 更に、つい先日まで自分がまとっていた弱い妖力は、敵と渡り合って魔界で暮らしていける程に充分強まっていた。
 おそらくこれも暗黒鏡が仕組んだことだ。
 行っても良いのだ、魔界へと。
「きっと、最後に母が、『オレの幸せ』を願ってくれたからなんじゃないかと、今では思います」
 暗黒鏡は最後まで、蔵馬の願いを追ってくれようとしているのか。『母親の幸せ』――つまり『息子の幸せ』を。
「ふむ。なんというか、捻くれているというか、素直すぎるというか……やはり、分からんものじゃな、暗黒鏡というものは」
 椅子に座ったコエンマは眉を寄せて唸っている。この数十年、すっかり暗黒鏡に振り回されてしまっていた。
 魔界のモノは理解できん、とブツブツと呟くコエンマに蔵馬は頭を下げた。
「コエンマ達には、今まで色々と尽力して頂いて、感謝しています」
「いや結局、何の役にも立たなかったがな」
 コエンマはそれまで霊界が研究していた暗黒鏡のデータを、蔵馬のために使ってくれた。さらに、霊界の三大秘宝とまで言われる暗黒鏡を壊してしまっても良いと、暗黒鏡そのものを提供しようとしてくれたのだ。
「いいえ、これからもお願いしておかないと。……コエンマ、暗黒鏡の保管をくれぐれもよろしくお願いしますね」
「お前の幸せのために、か?」
 皮肉を含んだコエンマに、蔵馬はただ無言で笑い返した。
 暗黒鏡がある限り、畑中志保利の最後の願いは履行され続けるだろう。それは今の蔵馬にとって、願ってもない結果だった。
 蔵馬はこの数十年で色々と考えた。始め、自分の命が暗黒鏡によって『母の幸せ』のために生かされていることに耐え切れず、蔵馬は飛影に死を願った。
 そして今、蔵馬は自分の命が『自分の幸せ』のために生かされていることを知っている。
 同じく生かされているという状況は変わりはしないが、以前のような切羽詰った気持ちは蔵馬には無かった。納得しているのだろうか。
 蔵馬の幸せ、それは飛影と共に生きることであり、飛影の手によって本当の死を迎えることだった。
 例え、飛影が直接蔵馬に手をかけることは無くとも、いつか飛影が死を迎えた瞬間、蔵馬も同時に本当の死を味わうだろう。蔵馬の幸せは飛影と共にあるのだから、飛影のいない世界など蔵馬にとって意味が無い。
 ほんの少し前まで、母と同時に死を迎えることを納得して待ち受けていた蔵馬は、いつの日か必ず飛影によってもたらされるであろう本当の死を、期待して待ち侘びることができるのだ。
「暗黒鏡は厳重に保管してある。お前が盗み出そうとしなければ、他の誰も奪うことは出来んよ」
 蔵馬の陰りのない表情を見つめ、コエンマはそう言って楽しそうに笑った。
 コエンマやぼたん達の見送りを受けながら、蔵馬は次元の歪へ身を躍らせた。
 今では、霊界と魔界は直接行き来が出来るのだ。ほんの数十年前までは、とうてい考えられなかったことだ。
 眩しいような暗いような、そんな空間を抜けると蔵馬の目指す魔界は目の前だった。
 そこには紛れも無く、魔界の証拠である黒い太陽が燃え盛っていた。


≪≫≪≫≪≫


 すぐに百足は見つかり、蔵馬は数十年ぶりに訪れた場所を懐かしげに眺めていた。そんな蔵馬に真っ先に近寄って来たのは、蔵馬の尋ね人だった。
「死にぞこないか。何しに来た?」
 無愛想な声は、飛影のものだった。外から帰って来たばかりなのだろう、手には血の匂いのする剣が握られていた。
 蔵馬は飛影の姿をも、懐かしそうに見つめる。つい先日、人間界で会ったばかりだったが、やはり飛影には魔界が似合うと感じた。
「母の願いを叶えに」
 恐らく飛影は、先日の畑中志保利最後の日を邪眼か何かで見ていたに違いない。未だ生き延びている蔵馬に、全く驚いている気配が無かった。
 だから蔵馬も、飛影の問いかけに簡潔に答えた。
「ここでか?」
「ええ。……貴方も見ていたんでしょ?オレの母の最期の様子を。そして、オレたちの話を聞いていた」
 飛影は覗きをしていたことが後ろめたいのか、視線を横に移す。
「……人間界に行ったついでにな」
 死ぬ瞬間を見てやろうと思ったのだ。そして、もし手が届くのならばもう一度その首を握り締めて、自分が蔵馬に本当の死を与えてやりたくて。
 だが、志保利が霊界案内人に連れて行かれた後、いくら待っても蔵馬に変化は現れなかった。コエンマが霊界から様子を見にやって来たのを確認した後、飛影は蔵馬に悟られないように魔界へと戻ったのだ。
「じゃあ、オレと母さんが何を話していたか、知ってますね?――だから、ここへ来たんですよ。飛影」
『貴方の、大切な人といつまでも幸せにね……』
 蔵馬の脳裏に母の言葉が蘇る。蔵馬はその言葉を叶えに来たのだ。
「オレ、ここに居てもいいですか?」
「……」
 自分の幸せが飛影と一緒にいることだと自覚している今、蔵馬は彼に拒まれることはないと確信していた。蔵馬が飛影と一緒にいたいと思っているうちは、飛影は蔵馬を拒むことは出来ない。
 全部、暗黒鏡のせいなのだ。その魔力によって、蔵馬と飛影の命は繋がれている。
 飛影自身もこの、暗黒鏡のカラクリに気がついているだろうと蔵馬は思う。それでも決して飛影は蔵馬を突き放すことは無い筈だ。
「貴方は、きっと、否とは言わないはずです。だって……」

――暗黒鏡の魔力は絶対ですから――

 蔵馬がそう口に出そうとした時、そのセリフは飛影に遮られた。
「くだらんことを、ごちゃごちゃ言うな。――お前は、考えすぎだ」
 暗黒鏡が何だろうと、飛影にはもう関係の無いことだった。今までと何が変わるというのか。
 例え蔵馬の母、志保利が言うところの蔵馬の『大切な人』が自分だったとしても、飛影自身は何も変わることはない。
 今までと同じくこの魔界で、自分で考えて感じたままに生きていく。
 ただ、その自分の傍らに蔵馬が居るというだけの話なのだ。
「何をそこで突っ立っている」
 飛影は蔵馬に背を向けて、奥へ行こうとしている。
 そして、首だけ振り返って立ち止まった。
 考えすぎだと言われ、そうなのかもしれないと苦笑いを浮かべていた蔵馬は、飛影が自分を待っていることに気が付いた。
 行っても良いのだ。飛影の側に。
「……ええ。今、行きます」
 蔵馬は飛影の隣に立つために、その足を一歩踏み出した。




          (ende)


HOME 

(20130110)
2001年・夏発行の
「幽☆白」の無料配布本です。
いずれUPしようと思って放置してました(笑)