ブリリアント ブルー(お試し版)

                          BY 月香




 朝、この時間にここを通ると必ずすれ違う。
 自転車という人間の乗り物にたくさんの荷物を乗せて、少年がやってくる。鴆がその少年に気が付いたのはごく最近だ。春になり、早朝とはいえ暖かな空気を感じ始めた頃だった。
 すれ違う時、一瞬目が合った気がしたがきっと気のせいだ。何故なら自分の姿は人間には見えない。
 自分は妖──あやかし、なのだから。
 鴆は自らが率いる妖怪集団、薬師一派の証である羽の紋様の入った緑の羽織をなびかせて、いつものとおり早朝の青々とした竹林の間の細い道を歩いていた。
 ここを歩くのは大体この時間と決まっていた。竹林のさらに奥にある池のほとりに、鴆が求める薬草が群生しているのだ。朝の淡い光の中でしか芽吹かない物だったので、その新芽を摘みに行くのはこの時間と決まっていた。
 この道は、人間が住居の間を通り抜けるために使っているようで、昼間であれば人間もいくらか通るが、こんな早朝にこの道を通るのは自転車に乗った少年だけだった。
 何か毎日の義務としている事柄があるのか、朝靄の向こうから姿を現す少年の通る時間は、いつも同じだった。
 自然と、鴆も少年とすれ違う時にその顔をなんとなく見ていたのだが──少年はやはり、今日も鴆のことをちゃんと認識しているらしい。ちらりと鴆の顔を見ると、にこっと笑って、そのまま自転車で走り抜けていった。
 どう見ても人間にしか見えないのに、どうして自分に気が付いたのか鴆は不思議だった。もしかして、向こうは鴆を妖だと気づいていないかもしれない。
 見えているだけなら特に害にはならないだろうと、そのうち鴆も少年の存在を自然と受け入れるようになっていった。 鴆は基本的に人間は嫌いだが、だからと言って積極的に害を為そうとは思わない。それに人を捕食する種類ではないし、人を驚かすことを性質としてもいない。
 その昔、中国から海を渡って来た『鴆』という種族は、羽に猛毒を持つ妖怪だったが、薬物の扱いに秀でていたため今では妖世界の中で医者の役目を果たしていた。
 今日も薬草を採取するためいつもどおりに竹林の道を歩いていると、不意に胃の奥から傷みと熱さが込み上げ鴆の喉元を圧迫した。ままならない呼吸の所為で鴆は目眩を感じ、よろりと足をもつれさせる。
 嫌という程覚えがある傷みに、発作が来たのだと鴆は気づいた。鴆は毒鳥の妖だ。そして年を経る程その毒は強くなり、その宿主の体をも猛毒で犯すようになる。鴆は、既に全身に身毒が回っているのだ。
 またいつもの吐血と嘔吐感と思い、治まるよう息を整えてやり過ごそうしたが、今日はなかなか治まらない。
 鴆はとうとう、地面に膝を付いた。その足元では、鴆に付き従ってきた竹籠と薬壷の附喪神が尋常で無い主人の様子に、困ったようにウロウロとしている。
 ごほっと強く咳き込むと、鴆の手のひらには赤い物がべったりと付いていた。血だった。喉が熱く、咳き込むと、その度にごぼりと血が零れ出した。背が震えて体を支えられない。
 鴆が何とか胸元から手拭いを取り出し口に当てると、みるみる間に真っ赤に染まっていく。拭い切れなかった血が、鴆の着物を赤く汚した。
 それを見かねた薬壷が、鴆の屋敷へ迎えを呼ぶために大急ぎで飛ぶように跳ねて行った。
 その様子を見ながら、とりあえずここで助けを待つしか無いと、鴆は太い竹が生える隙間にうずくまった。
 ここから自分の屋敷はそう遠くは無いが、自力で帰ることは無理そうだった。迎えが来るまで意識を保っていられるだろうかと、鴆は途方に暮れていた。
 残った竹籠が鴆の裾を掴み、辺りをキョロキョロと見回している。と思えば、何かに驚いたようにぴょんと跳ねた。朝靄の中を、誰かが走って近づいて来る足音がしていたのだ。
「大丈夫?!」
 そこへ現れたのは、いつもの自転車に乗った人間だった。自らが乗り捨てた自転車が、ガシャリと大きな音をたてて倒れるのも気にせず、凄い勢いで鴆の元へと駆け寄ってくる。
「……」
 鴆は荒い息を吐きながらも、やはりこの少年には自分が見えていたんだなと、変な所で納得していた。



~中略~



 十数分の立ち話の後、ようやくリクオは帰っていった。
 離れた場所から一部始終を聞いていたらしい蛇太夫が、酷く憤慨した様子で鴆に近寄って来た。手にはさっき鴆から手渡された菓子の箱を持ったままだ。
「鴆様を友達だなどと、ずうずうしい!由緒正しい純粋な鴆の血筋を何だと思っているのか!」
 細い舌をチロチロと伸ばし、今ここには居ない半妖の少年への警戒心を消そうとしない。
「くくく、面白いじゃねえか」
 鴆は息巻く側近を窘め、声に出して笑った。
 妖世界に詳しくない半妖の少年が、『鴆』がどんな妖怪なのかとか、薬師一派の頭首が奴良組の中でも高い幹部の地位にあることなど、知っている筈もない。
 リクオが帰っていった後の門をじっと見つめている鴆に、蛇太夫はコホンと咳払いをし、息を整えてから声をかけた。
「……鴆様、あの子供は一体何の妖怪なのですか?」
「おめえにも分からねえか」
 薬鴆堂の番頭ともなれば、薬師の鴆と同じくらい色々な妖怪に出会う機会がある。それに、鴆の父親の代からこの屋敷に仕えているのだ。知らない種族はほとんど無いと言ってもいい。
「はい、恥ずかしながら」
 蛇太夫は笑っている鴆に、厳しい視線である事実を伝える。
「──ただ、まれに輪郭がぼやけて、はっきりと姿が確認出来ない時があります」
「……そうなのか?」
 鴆はそれには気付いていなかった。半妖だからなのか、それとも妖怪の部分にそういう性質があるのか、はたまた鴆達の知らない新種なのか。鴆は更にリクオへの興味を強めた。
「実はオレにも分からねえんだ」
「は?ぜ、鴆様!」
 まさか、本当に正体が分からないままだったとは思ってはいなかった蛇太夫は、鴆の警戒心の薄さを心配していた。
「そういや聞かなかったな。……今度にでも聞いておくか」
 呑気な主人の台詞に少年と再び会うことを前提とした言葉が入っていたことに、番頭は目を細める。薬師としての性か、鴆は好奇心が強い。それを諫めるのが一番の側近である蛇太夫の役目だった。
「……得体の知れない者を、頻繁にお屋敷に招くのは、おやめください」
「ああ、そうだな……でもなんだか、初めて会った気がしねえんだよなぁ」
 今にして思えば初めてリクオと会った時から、なんとなく馴染み深い妖気を感じたのだと言ったら、蛇太夫は納得してくれるだろうかと鴆は首を捻る。
 蛇太夫は、持ったままだった箱を鴆の前に差し出した。
「どうしましょう?私がお毒味しますか。それとも他の者達に下賜なさいますか」
 言外に処分するかどうか訊ねられたが、鴆は少年の母親が作ったという見たことの無い菓子に興味が湧いていた。
「いや、いい。自分でする」
 鴆の毒は、他の毒物を凌駕する猛毒だ。鴆が毒物で殺されることはまず無い。鴆を殺せるのは、鴆自身の猛毒だけなのだ。祖父の時代辺りには、毒味役として総大将のお供をしていたこともあったという。
 毒味をするならなまじ他の者が命を張って確かめるよりも、鴆自身が最初に口を付けた方が早い。
 もっとも蛇太夫も毒蛇の変化だったので、普通の毒物にはびくともしないのだが。
 後で菓子を一つだけ持って来てくれと言う鴆に、蛇太夫は特に止めることも無く、了解しましたと頭を下げる。
「そうですか。……人間の作った物の中には、我ら妖怪にとって未知なる物も入っているかもしれません。どうぞ、ご用心を」
「ああ、分かっている」
 なんとなく鴆は、蛇太夫の心配は杞憂だろうと確信していた。



~中略~



「……よう、鴆」
 小さな声がして、鴆は本から顔を上げて庭へと向けた。開けたままだった障子の向こうに、夜の中庭が見えていた。
「誰だ?」
 聞き覚えの無い自分を呼ぶ声に、鴆は腰を上げて庭を窺う。
 するとそこには先刻、鴆を無頼者から助けてくれた銀髪の妖怪が立っていたのだった。
 暗闇の中、手入れされた背の高い庭木の隣に涼しげにたたずみ、長い銀髪を揺らしている。いつからそこに居たのか、鴆は気付かなかった。
 慌てて廊下に出た鴆は、辺りをキョロキョロと見渡す。この妖怪以外には誰もおらず、誰かに案内されて来たわけでも無さそうだった。
「お前……どっから入ってきた」
 鴆の屋敷は診療所も兼ねているため、妖怪の出入りが激しい。だが組員以外の妖怪は、鴆の自室に近いこの中庭へは来れないようになっている。塀も乗り越えることは出来ない。強力な結界が張ってあるのだ。
 偶然運び込まれた無頼者の処置を下僕に任せ、鴆は自分の部屋に戻ってきていた。そして、膨大な妖怪名簿をあさり、その正体と所属の組を調べようとしていたのだ。
 とりあえずあの場所に居た下僕達は、獣相の妖怪達の素性については心当たりが無いと言う。それは、後で本人達から直接聞き出すとして、鴆は自分だけで調べなければならないことがあった。
 その相手が今、目の前に現れたのだった。 
「普通に、門から歩いて来たぜ」
 妖怪はくいっと顔を正門の方へ向けた。探していた相手に、あっさりとそう答えられ鴆は眉をしかめた。
 確かに結界も万能ではない。それにしても、誰か気が付いて引き留める奴とかは居なかったのかと鴆は呆れた。
「……ちっ。しょうがねぇな……」
 先ほどの強さを見ていれば、鴆一人で簡単に何とか出来そうな相手では無かった。妖としての性質も見極められない今は、下手に手を出さない方がいいと判断した。
「おいおい、そんな簡単にオレを屋敷に入れたこと見過ごしていいのかい?オレはお前の味方だとは限らないぜ」
 不審者が自らを疑わないのかと、問いかけてくるのも珍しいなと思いながら、鴆はなるべく冷静に受け答えをしようと努める。何かあった時のためにと、懐に隠し持っている短刀の柄の位置を確認した。さらに部屋の中に長刀が飾ってあるのを横目で見る。
 そして外からは見えない部屋の柱には、紗の紐が目立たぬよう下がっていて、引けば別の場所にいる屋敷の者が鴆の部屋に駆けつけてくるようになっている。体の弱い鴆が突然部屋で倒れた時の、緊急の連絡用だった。
 さらに鴆は、いつでも毒羽を放てるよう準備を怠らない。
「……お前、何の妖怪だよ」
 鴆は、見たことの無い妖怪に種族を訊ねたが、それに対する回答はとてもあっさりとしたものだった。
「知らねえよ、考えたこともねえ」
 言わないのか、本当に知らないのかは鴆には判断出来ない。
「流れの妖怪か?どっから来た」
「くくく、オレは自由な妖なのさ」
 鴆の困惑を余所に、ひょうひょうとそう言ってのけた銀髪の妖怪は、ゆっくりと鴆の立つ縁側に近寄ってきた。
 鴆はあらためてその妖怪の姿を目を細めて見たが、いくら記憶を辿ってみても、今までこんな妖怪と出会ったことは無い。
「さっきは助けてくれて礼を言うぜ。……謝礼でも受け取りに来たのか?──いくらあれば……」
 知り合いならば、リクオの時のように宴席を設けるなどそれなりの対応をするが、得体の知れない相手とは、金銭で片を付けた方が早いし確実だった。もっともリクオが知り合いというのは、リクオと鴆の方便の所為で、蛇太夫がそう信じたからだ。
「ちょっと待てよ。金なんか、いらねぇよ」
 だが鴆の申し出に妖怪は少し怒った様な顔をして、初めて不敵笑い以外の表情を見せた。金目的だと言われたことが気に障ったのだろう。
 だったら何が目的なのか。本人が言ったように、鴆が食わせた記憶の無い飯の御礼なのか。
「じゃあ何しに来たんだよ」
 表情が崩れたかと思ったのもつかの間、すぐに先刻までの不敵な笑みをうっすらと浮かべる。
「別に。……強いて言えば、お前の顔見に来たってことかな」
「ふざけんな!」
 侵入者の物言いはまともな受け答えにならず、鴆は怒気を強くする。



~中略~



 両の手首と足首をそれぞれ縄で縛られた状態で、鴆は畳の上に放り出された。
「……ぐうっ」
「『鴆様』は丁重に扱えよ。間違っても怪我とかさせて血なんか出させるんじゃねえぜ、毒持ちだからな」
「人間の方は、そのまま生かして縛っておけ。あとで、新鮮なまま美味しく頂くんだとよ」
 同じように手足を縛られたリクオは、無造作に床に落とすように転がされた。うめき声が聞こえたので、生きているということが分かり、鴆を安心させる。
 わははと二人をからかうように笑う妖怪達は、雑多な種族が混じりあっていた。この間、鴆を襲った奴らのような獣相の者もいれば、魚の鱗のような肌をした者もいる。
 敵は、鴆を殺すつもりは無さそうだった。そうするのならば、意識が無い内にすでに始末されているだろう。
「おおそうだ、これは貰っておくぜ」
 敵の一人が、鴆の緑色の羽織を手に取った。薬師一派の証である羽模様が染め抜かれているものだ。
「……何する気だ」
「お屋敷に送るんだとよ。丁寧な礼状を付けてなぁ」
 鴆はその妖怪の言い方で、全てを指示している黒幕は今ここに居ないことが分かった。そしておそらく羽織は、頭首を誘拐した証拠として、薬師一派あてに要求文と一緒に送りつけるつもりなのだ。
 ここで大人しくしてなと、妖怪達が言い捨てて部屋を出ていった後、鴆はすぐに隣に転がされているリクオの様子を伺った。
「リクオ!大丈夫か?」
「……う、うん。なんとか……」
 鴆の姿を見て、リクオもホッとしたように表情を緩めた。リクオの額からは血が一筋流れていた。来ている服もところどころ破け、その下から覗いている肌にも血が付いているようだった。
「すまないオレと一緒に居たばかりに──」
 リクオは、鴆と歩いていたところを一緒に捕まったのだ。
「……ううん、ボクも油断していたよ。あれだけ気を付けてって言われてたのに」
 最初に襲われたのはリクオだった。突然現れた十数人の妖怪達に囲まれ、鴆はまっさきに少年の安否を気遣った。敵に後ろから殴られて倒れそうになるリクオに気をとられ、自分も頭を何かで殴られ気絶してしまったらしい。
 鴆の意識が戻ったのは、大柄な妖怪に担がれてこの部屋へ向かっている最中だった。暗い、長い廊下を通って連れてこられたのは、板張りの床に畳が数枚だけ置いてある殺風景な部屋だった。頑丈そうな木戸には鍵と、妖気封じの札が張ってあった。壁にも同じような札が張ってある。
 鴆は今まで何度か襲われ、誘拐されそうになったことはあったが、本当に捕まったのは今回が初めてだった。
「情けねぇぜ……。くそっ、この縄さえ外せれば」
 鴆とリクオを縛った縄には呪がかけられていて、妖気を放出できないように仕組まれているらしい。それが無ければ、手足の自由が利かなくても鴆は毒羽を飛ばし、周りの敵を一掃することも可能だったのだ。
 古い板張りの部屋には、高い天井の近くに小さな窓が一つだけついていて、そこから赤い夕日の光が差し込んでいる。捕まってから、二時間も経っていない筈だ。
 鴆がリクオと会っていたことを知っているのは竹籠だけだ。そのうち、帰ってこない自分に気付くだろうと鴆は期待した。
「……どうやって、ここから逃げようか……」
 鴆は、こんな状況でも諦めることをしないリクオの姿勢に感心した。リクオだけでも逃がさなければ。リクオは、奴良組の抗争とは無関係なのだ。
 リクオは、ああでもないこうでも無いと、手と足を縛られた状態でじたばたと動きながら、縄を外す方法を考えている。
「何か、尖った物とか固い物でもあれば、縄をこすって切れるんだけどね……」
 そう言ってリクオは部屋の中を見渡したが、余計な物は一切無く、明かりも小さな窓から差し込む夕日だけだ。
 いつもならば鴆は懐に短刀を忍ばせているのだが、それも気を失っている間に奪われてしまっていた。



~後略~


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