吾亦紅―ワレモコウ―


                   BY 月香





 暑い、夏のことだった。
 その日、リクオはいつものように電話で鴆との会話を楽しんでいた。
 表向きの理由は、薬師一派の最近のシノギを確認するだとか、本家妖怪が夏バテしているから何か解消する良い方法は無いか相談するなど、総大将としての仕事を全うするためだ。
 しかし本音はもちろん、ただ一人の義兄弟であり、リクオにとって大切な好きな人(妖怪)の様子伺いだ。
 最近のこの暑さ、体の弱い鴆にとっては相当な負担になっているのではないか。リクオは会いに行けない日は、電話で鴆の様子を確認することにしていたのだった。
 鴆は機械の扱いに疎いのだが、なんとか携帯電話に出ることは出来るのだった。
 その、いつもの電話の最中だった。
 電話の向こう、きっと満面の笑みでリクオの話に応えてくれている鴆の――その背後、遠く離れ、通常の人間の能力ではとうてい知ることなど出来ない所から、リクオは妙な気配を感じたのだ。
 危険は感じない。嫌な感じもしない。しかし、この暑い夏の最中にやけにじっとり、そしてひんやりした気配だった。
 むしろ、こんな猛暑であればそんな気配は歓迎すべきものだし、きっとこんな話をリクオの同級生達にしてみれば、「妖怪の気配ってそんなものじゃない?」などと呆れられそうな出来事だった。




 だから翌日、ようやく総大将としての仕事に一段落つけ時間を作ったリクオは、適当な理由をかこつけて薬鴆堂に出かけたのだった。
 特に急ぐ必要が無い時は電車とバスを乗り継いで薬鴆堂に向かうのだが、今回は妙な気配を感じていたこともあったので、本家の朧車に乗って行くことにしたのだ。
 だから、リクオは空の上から薬鴆堂を眺めることが出来たため、屋敷がまだまだ遠く豆粒以下にしか見えなくても、その異変に気がついたのだった。
「……ねぇ!」
 リクオはばさりと御簾を上げ、朧車の窓から首を出した。すごい風で髪の毛がぐしゃぐしゃになり、眼鏡が傾いたがそんなことは気にしていられない。
「はい、リクオ様」
 リクオに呼ばれた鴉天狗の黒羽丸は黒い翼をばさりとはためかせ、リクオの顔のすぐ側まで近寄ってきてくれた。
「黒羽、――あの、薬鴆堂から湧き出ているようなアレって、何?」
 リクオに切羽詰まった様子で声をかけられた黒羽丸は、目を凝らしてようやく、遠くに見える総大将が危惧するものに気づいたのだった。リクオが指し示したのは、霧のようにも見える黒いものだった。
「すぐ、見て参ります」
 目的を理解すれば黒羽丸の行動は早い。翼を強く叩きつけるように羽ばたかせると人型を解き、鴉天狗の姿に戻った。その方が更に早く目的の場所へ向かえるのだ。
「急いでね!」
 そうリクオが急く声を発する前、黒羽丸はすでに薬鴆堂に向かっていた。
 リクオの側近の一人である黒羽丸は、リクオにとって、そして奴良組にとって薬師一派の鴆の存在がいかに重要かを理解していたからだった。
 黒羽丸の姿は、あっという間に小さくなる。
「朧車も、急いで!」
 リクオは、自分が乗っている妖怪・朧車を一刻も早く薬鴆堂にたどり着くよう急かしたのだった。




 リクオは朧車が薬鴆堂の庭に降りるかどうかのところで、御簾を跳ね上げて外に飛び出した。
 たしっと地面に降り立ち、リクオは周りの異変に注意を巡らす。
 おかしな様子は、――無い。
 先ほど遠目でもはっきりと見えた、あの煙のような黒い違和感は、すでに消えた後だった。
「鴆君!居る?」
 リクオが義兄弟の安否を確かめようと大声を出したところ、まず始めにリクオの前にさっと膝を付いたのは黒羽丸だった。
「リクオ様」
「黒羽、あれ何だったの?もう消えちゃったみたいだけど……」
 眉をひそめたリクオに、黒羽丸は静かに答えた。 
「道だったようです」
「道?」
 黒羽丸はいつもの真顔でリクオにそう伝えたのだが、リクオは首を捻るしかない。
「――ありゃぁ、幽世への道だ」
「鴆君!」
 リクオの疑問に答えてくれたのは、この薬鴆堂の主、リクオの義兄弟にして最も大切な鴆だった。
 縁側から庭に居るリクオを見下ろす鴆は、リクオを手招きした。そんなところに居ないでさっさと中に入れと言っているのだ。
 リクオは鴆の無事な姿を自分の目で見て、ようやく安心したのだった。
 そして残るのは疑問だ。
「幽世って……」
「つまり、あの世だな」
 鴆はそうあっさりと答えたのだが、あの世とは、つまりは死後の世界だ。
「どうしてここにそんな道が」
「――うーん、あの世に送ってやりてぇヤツが居てな、道を作ってやればそっちへ向かうかと思ったんだが……」
「え、鴆君が作ったの?」
 鴆の話す様子を見ていると、先程リクオが感じた違和感のあるものは、どうやら鴆がわざと意図して作ったか呼び寄せたもののようだった。
「ああ。どうするかな……、このままだとウチが湿気ってしょうがねぇ」
 鴆は肩をすくめて、苦笑いをしている。
 湿気る、という言葉でリクオはこの違和感が何から起因するものだったかということをようやく理解したのだった。
「そうか……この気配って『水』なんだね」
 昨日、鴆との電話口で感じたのはそれだったのだ。
 重くじっとりして、冷ややかなもの。
「今、ウチに面白いモンが居るんだが、あんまり長居されてもウチの畳が湿気っちまうし、そいつ自身にもあんまり良くねぇ」
 鴆が心配し、困っているけれど面白いものとは一体何なのか。
 すると、鴆が案内してくれたのは、意外にも鴆の自室だった。
「あれを見てくれ、――気がついたら居座っちまってよ……」
 困ったような物言いをしながら、それでも楽しそうな鴆の表情に興味をそそられ、リクオはそっと障子を開ける。
 すると、ぶわりと部屋から溢れてくる『水』の気配――。
 例えて言うならば、鴆の部屋がまるごと大きなガラスの器になってしまったような。
 そのガラスの器は夜だと言うのに自らぼんやりと発光して、中から淡い光が揺らめいている。
 ガラスの器には、水が満たされている気配がした。
 そして小さく、『ぽちゃん』と水の跳ねる音がしたのだった。
「何か、――泳いでる?」
「ああ。見ろよ」
 鴆が指さしたその先は何故か畳の上で、その平たい面に何やら動いている小さな影があった。その形が何なのかリクオはすぐに気が付いたのだった。
「……金魚?」
「影だけ、だがな」
 大きなガラスの器の中には、小さな一匹の金魚。ただし、平たい影だけ。
 ぽちゃんという水の跳ねる音が聞こえるが、水のように見える空中に魚の姿は見えない。
 しかしその金魚は、鴆の部屋を金魚鉢だと見なして、畳の上で『影』のみの姿で泳いでいるのだ。
 ひらひらとした豊かな尾鰭と腹鰭を揺らめかせ、金魚の影が泳いで周りの水の気配をかき回す度に、鴆の部屋全体は七色の煌めきを帯びるのだった。
 リクオは行ったことは無いけれど、夜の水族館はもしかしてこんな風景なのだろうかなどと思っていた。
 その当の金魚の影は、部屋の主がやってきたことに気づいたのか、鴆とリクオの居る廊下近くまで泳いできて、迷わず鴆の足下に寄り添いくるくる回っている。 
「綺麗だろ?」
「え?……うん」
 見たことの無い光景に目を奪われていたが、鴆に声をかけられて、リクオははっとして鴆へと振り返った。
 鴆の部屋をまるごと占拠しているこの水のようなものと金魚の影は、一体何なのか。鴆に危害を加えるようなものではないのか、――と心配していたリクオの杞憂はすぐに払拭された。
 リクオが振り返った先の鴆が、とても楽しそうで美しい笑みを浮かべていたからだ。




 残念ながら鴆の自室は金魚に居座られてしまったので、リクオは鴆の案内で隣室へと向かった。
「あれって、――妖怪?」
 リクオが言うあれとは、もちろん金魚の影のことだ。それにしてはあまり妖気が感じられなかったなと思ったリクオは、鴆に尋ねてみる。
「そうだな。まぁ、簡単に言えば……金魚の幽霊だな」
「じゃあ、妖怪じゃないの?」
「何言ってんだ?妖怪のうちだろ、幽霊も」
「え?」
「なんだ?」
 どうやらリクオと鴆の意識には、齟齬があったらしかった。
「リクオ様。古来、妖怪と幽霊は同一の物とされていたんですよ」
 冷たい麦茶を持ってきてくれた蛙番頭が、リクオの疑問に答えてくれた。 
「知らねぇのか?……そら、鯉伴様の最初の奥方様も、幽霊だっただろ?」
「え」
「知らなかったのか」
「い、いや、知ってたよ!」
 そういえばとリクオは記憶を巡らす。聞いたことはあったけれど、すっかり忘れていたようだった。
 では、その金魚の幽霊が一体何故、鴆の部屋を占拠しているのだろう。
「――迷ってきたんだ」
 鴆は苦笑していた。
「戸を開けても、この部屋から出て行かねぇし、あの世への道を作ってやっても、行こうとしねぇ」
 縄張りにでもされちまったかな、と鴆は首を捻っている。
「道って、さっき言ってた奴だね。ボク、それが薬鴆堂の上を漂っていたから、何があったんだろうって心配になって」
 薬鴆堂から湧き出る煙のような川のような陰の気を満たしたその流れは、空へと漂いながら、ずっと空の彼方まで続いていたのだ。
「ああ、驚いたか。見たこと無かっただろ」
 鴆が言うには丁度、盆の時期だったので道を開きやすかったらしい。金魚の幽霊を、あの世に送ってやろうと思ったのだという。
「このままじゃ、本当の妖怪になっちまうからな」
 リクオはそれを聞いて首を傾げる。
「さっき幽霊も妖怪だって言ったよね?」
 だったら鴆が心配するようなことはないのでは――。
「リクオは仲間を増やしたいか」
 そんな鴆の物言いは、まるで仲間を増やすことに賛成でないようにも聞こえる。
「それはやっぱり、百鬼夜行は多い方がいいでしょ」
「なりたきゃなればいい。けど、まだこいつはこの世に捕らわれていない。まだあの世に行ける筈なんだ。……妖怪になるかならねぇかは、コイツ自身で決めればいい」
 だから、選択肢としてあの世に行ける道を作ってやっていたという。
 しかし金魚の影は、まだここに留まったままだった。




「で、リクオ、今日は何の用だ?」
「え?えーっと」
 改めて聞かれると、リクオは言葉に詰まってしまった。
 何しろ昨日も電話で話しをしていたので、奴良組総大将としてはネタ切れになってしまっていたのだ。
 リクオが危惧していた妙な気配の原因は、この金魚の影の所為なのだろうということは分かった。鴆はこの金魚の影を受け入れ、あの世に送ってやろうと考える程に気にかけているらしい。ならばリクオの心配は全くの杞憂だったというわけだ。
「あ、その……え、縁日が」
「縁日?」
「うん!つらら達がいつも出店している神社の縁日があってね、涼みがてら行かないかな…って」
 リクオは、良いタイミングで思い出した夏の風物詩へ一緒に出かけないかと、鴆に誘いをかけた。
 突然のリクオの提案に目を見開いていた鴆は、ううむと首を捻る。
「……そうだな。けど、仕事もあるしな」
 真面目な鴆は仕事を気にして、ためらっていた。
 そんな逡巡する鴆の背を後押ししてくれたのは、蛙番頭だった。
「行ってらっしゃいませ、鴆様。薬鴆堂の仕事の方は一段落付いていますし、最近もっぱら運ばれてくる患者は、夏の暑さにやられた妖怪ばかりです。――その間にあの金魚、私めがなんとかしておきます!」
 胸をどんと叩き、蛙番頭は意気込んでいる。
「あの金魚を追い出そうと試みたのですが……うまくいかず……」
 どうやら蛙番頭は、いつの間にか鴆の部屋に住み着いた金魚の影をなんとかしようとしていたらしい。
「……このままでは鴆様の部屋が湿気を吸って、黴が生えてしまいますよ!」
「うーん、それは困るかも……」
 人間でも黴臭い部屋に住んでいると健康を害してしまう。体の弱い鴆にもあまり良いものとは思えない。
「そうだね。このままじゃ、鴆君の部屋がずーっと水っぽいことになるもんね」
 いつまでも鴆の部屋に居座り続けられても困る。
「ははは、しかし、おかげで結構涼しいんだぜ」
 そんなことを笑いながら言う鴆の言葉で、リクオも屋敷の中が思ったよりずっと過ごしやすいことに気づいた。
「あ、本当だね」
 今年は暑い日が多かったので鴆の体調が悪くなっていないか、リクオは毎日のように電話で確認していた程だった。
 これならば、今年の暑い夏もなんとか乗り切ってくれるだろうか。
 『鴆』は元々暑い気候の地域に住んでいた妖怪だったというが、最近の日本の蒸し暑さは体力に自信のあるリクオでも、本当に辟易する程だった。
「だったら、そんなに急いで追い出すこともないんじゃない。あの金魚のおかげで涼しいんでしょ?」
「涼しいことはそうなんですが……やはり……」
 蛙番頭は、どうも金魚の影に長居して欲しくないようだ。同じ、水辺の生き物として、縄張り争いでもしているのだろうか。
 そしてリクオは、ふと思い立った。
「あの金魚、ずいぶん鴆君に懐いてたみたいだね。もしかして、一匹だと寂しいのかな」
 広い和室に小さな金魚が一匹。リクオのイメージでは、金魚は大勢で集まって泳いでいるものだったので、寂しそうに見えたのだ。
 だから鴆に懐いているのだろうか。鴆が慕われるのは嬉しいが、あんまり馴れ馴れしくして欲しくないというのが、リクオの正直な気持ちだった。  
「あのさ、鴆君。縁日でその金魚に仲間を取ってきてあげようよ!」
 きっと縁日には金魚掬いの出店もある筈だ。
「仲間が一緒なら、他の場所に移ってくれるんじゃない?――涼しいのはいいけど、部屋が湿気っちゃうもんね」
 あの世に行きたくないのであれば、それはそれで構わない。が、とりあえず鴆の部屋から出て他の場所に移って欲しくてリクオはそんなことを考え付いたのだった。
「仲間か……」
 そう言って、鴆は黙った。




◇◇◇




 結局、鴆はリクオと一緒に縁日に出かけることになった。
 薬鴆堂の仕事を放っていくことが後ろめたいのだろうと思ったリクオだったが、蛙番頭が強く勧めてくれたためなんとか出かけることが出来たのだった。後で蛙番頭には御礼を持ってこようと思うリクオだった。
 リクオはデートだと浮かれていたが、鴆は出かける用意している時も渋い顔をしている。
「鴆君は、ボクと出かけるの嫌なの?」
 そう尋ねれば、鴆は必ず首を横に振るだろうということは分かっていた。
 案の定、鴆はとんでもないと慌てて、喜んで頷いていた。
 普段から着物姿で過ごしているリクオと鴆にとって、浴衣姿というのは決して珍しいものではなかった。
 蛙番頭は、鴆がいつも着ている着流しとは全く違う柄の浴衣を用意してくれたのだが、いかにも鴆一派です、という衣服を身につけていると、周りの純粋に祭りを楽しもうとしている妖怪や、縁日で店を出して働いている妖怪らを萎縮させてしまうのではないかという配慮だった。
 だからリクオも、時刻は夜だが今夜は人間の子供の姿で出かけるのだ。護衛の三羽鴉は離れたところから見守ってくれることになっていた。
「鴆君、着替えた?」
 鴆が今日着て行く予定の浴衣は、地は灰色で黒い細い線で細かなかすれ十字が織り出されていた。帯は薬師一派の色目である緑色だ。
 リクオの浴衣は、紺色で柄は大きめの麻の葉柄。帯はシンプルに薄茶の無地のものだった。
「鴆君、もっと襟元締めて」
 鴆はいつも着物を胸元を大きく開けて着ている。今も、それと同じように着付けていたので、リクオは無理矢理に襟を引き寄せたのだった。
「暑いんだが……」
 文句を言う鴆にリクオは苦笑して指をさす。
「見えてるよ」
「何がだ」
「ドス」
 鴆の開いた胸元から見えているのは、『鴆』の紋様と、そして短刀の白鞘だ。鴆は何事も無かったかのように短刀をぐいっと腹の奥へ押し込んでいる。
「それは今日、持っていかなくてもいいんじゃない?」
 縁日デートをするために、そんなものが必要なのかどうかとリクオは疑問だった。しかし。
「リクオはオレが守る」
 鴆は拳を握りしめて声高に叫び、奴良組総大将の側近として、意気込んでいたのだった。
 その熱意に水を差してはいけないと、リクオは諦めて、そうだねよろしく……と言ったのだった。




 今日、リクオと鴆が向かった縁日が開催されている神社は、薬師一派のシマに近い場所だったので、朧車に乗った二人はそれ程時間がかからずに到着した。
 朧車を神社の少し後ろの林の中に降ろさせる。日も落ちているのでこんな場所を見咎める人間もいない。
「鴆君、今日は体の具合はどう?」
「ああ悪くないぜ」
「少しでも疲れたらすぐ言ってね、神社の後ろに朧車を待機させておくから!」
 体の弱い鴆のため、何かあった時のために朧車をいつでも動かせる状態にしておくことにした。神社の後ろの更に奥の林の中だ。目くらましもかけているので人間には見えない。
 他に、リクオと鴆の護衛にと少し離れた所に常に三羽鴉が控えている。
 護衛といえば鴆自身も、リクオの守るためにと言って胸元に武器を隠し持っているのだが、それは今日は出番は無いだろう。
 むしろ、リクオが鴆を守りたいのだが、きっと鴆はそのことに気がついていないし、リクオ自身もまだ鴆に告白するつもりは無かった。
 鴆はきっと、リクオの願いは何でも聞き届けてくれる。よほど『奴良組総大将』にそぐわない行動をしなければ。つまり、告白したとして――それを受け入れてくれたとしても、鴆の本心なのかどうか分からないのだ。
 だからリクオは、鴆に告白していない。今は、まだ。
「リクオ、悪いがあんまり長居は出来ねぇんだ」
 やはり仕事が気になるのだなと察したリクオは、素直に頷いた。
「分かったよ。近いところを回って……あの金魚の仲間を取ったら帰ろうか」
 とか言いつつも、やはり鴆と一緒にお祭りの縁日を廻れると思うと心が浮き立ってしまい、リクオはついつい目につく屋台を一つ一つ覗きながら、鴆に向かって興味があるか無いか何かしたいことはないかなどと質問攻めにしてしまったのだった。
「かき氷食べる?」
「イカ焼きは?」
「あ、チョコバナナ!鴆君、食べたことある?」
「綿飴も美味しそうだね!」
「お前が食いたいなら、食えばいい」
 リクオがお勧めする食べ物にはあまり興味を引かれた様子の無かった鴆だったが、そんな鴆がふと視線を止めた先にあった店に、リクオは目敏く気づいたのだった。
「……あそこって、何する店?」
「型抜きだな」
 鴆が言うには、小さくて薄い板状に固められた菓子を、針や虫ピン、爪楊枝等の先の細い道具で削り取って、定められた形に抜き取る遊びだという。
「へぇ、鴆君良く知ってるね。遊んだことあるんだ」
「……いや。小さい頃、親父に教わった。親父が上手かったんだ。遊びっつうかよ……手先の細かい動きが出来るよう、鍛えられたんだ」
「……勉強のうちだったの?」
「ああ」
 人間の子供の遊びだというのに、鴆にとってはきっと修行の一つだったのだ。
「正直、あんまし縁日にも来たことがねぇ。小さい頃は薬師になるための勉強で忙しかったし、親父が亡くなってからは一派を率いていかなくちゃならなかったからな」
 懐かしそうに目を細めている鴆の脳裏に浮かんでいるのは、幼き日の思い出か、それとも随分昔に亡くなった父親のことか、それとも。
 リクオの父親は、ふらりと家を出て言っては何日も帰って来ないような妖怪だったが、よくリクオを遊びに外に連れて行ってくれた。
 だから型抜きは知らないが、縁日にも一緒に来たことがある。
 リクオは、縁日に浮かれていたことが後ろめたくもあり、同時に鴆をこうやって連れ出すことが出来て良かったと思ったのだった。




「鴆君、疲れてない?大丈夫?」
「これくらい平気だ」
 リクオは鴆の様子を確認しつつ、人混みの中をすり抜けるように歩いた。ぬらりひょんの姿にならずとも、これくらいはお手の物なのだ。
 提灯の明かりは赤やら橙やらで、鴆の本当の顔色が良く見えないのが難点だった。
 今日の目的は、金魚掬いだ。
 もっともリクオにとっては、鴆と遊びに出かけるための口実でもあったのだが、あの、鴆の部屋に住み着いてしまった金魚の影に、仲間をあげたいと思ったのは本当のことだ。
 そして、その金魚の影が、仲間と一緒に別の場所に移ってくれたら文句は無い。
 金魚掬いの屋台に行くと、丁度他の客が遊び終わって立ち去ったところだった。
 リクオは鴆と二人、金魚の入った水槽の前にしゃがみ込む。
「いらっしゃい!……っと、さ、さんだ……!」
「しっ」
 三代目と叫びそうになった妖怪に、リクオは口元に立てた人差し指を当てて小さく声を発した。
 金魚掬いを仕切っていた男が、客としてやってきたリクオの顔を見て思わず名前を叫ぼうとしたが、気づいたリクオに制されたのだった。
「……え、えーっと、いらっしゃいませ!遊んでいかれますか?」
「うん。鴆君もやる?」
「オレはいい。お前に任せる」
「……って、ぜ、鴆さ」
「しーっ!」
「す、すいやせん……。あ、あの……つららの姉さん呼んできましょうか……?」
 この縁日は、リクオの側近であるつららが頭を務める荒鷲組が仕切っているのだ。
 びくびくした小声でそう尋ねられたが、リクオは軽く首を振った。
「いいよ、ただ遊びに来たんだ。気にしないで」
 リクオは店の妖怪からポイを一つ受け取った。一回三百円。無料で良いと言い渋る店の妖怪に硬貨を払い、左手に茶碗を持ち、右手でポイを構えた。
 さて、とリクオは気合いを入れる。どの金魚にしようか、なるべく大きい方が見栄えがするし、上手く掬えた時の達成感がある。そして好きな相手の目の前で格好良いところを見せる、絶好の機会だと思った。
 品定めをしているリクオの隣で、鴆はじっと水槽を見つめていた。
「……リクオ、そいつを取ってくれねぇか」
「え、どれ?」
「それだ」
「この金魚?」
「ああ」
 鴆が指し示したのは、端の方でゆっくり泳いでいる取りやすそうな赤い金魚で、背中に白い小さな斑模様があった。
 リクオとしては、もっと取りにくい金魚を颯爽と掬ってやろうと考えていたのだが、鴆の希望を叶える方が優先だった。
 リクオはしっかりとポイの柄を持ち、狙いを定めた金魚の背をじっと見つめる。
 金魚掬いのコツは、ポイを横に滑らして水の抵抗を受けないように動かすのだ。そして、和紙の真ん中ではなく、端の方に金魚を乗せると良いという。
 夕べリクオは、スマホで金魚掬いのコツについて検索をし、動画サイトで何度もシミュレーションをした。頭の中では完璧に出来る。
 何より、鴆が自分を見つめていることが、リクオのやる気と集中力を引き出していた。
「……っと、――よし!」
 リクオは持ち前の運動神経と鴆に良い所を見せたいという煩悩でもって、動画サイトの技を実践してみせたのだった。




 リクオのポイは破れていなかったため、まだ金魚掬いを続けることは出来たのだが、一匹で良いという鴆の言葉に従い、リクオは鴆の選んだ赤い金魚だけを受け取った。
 店の妖怪はもっとオマケの金魚を持って行っても良いと言ったが、それは謹んで辞退した。
 その金魚を、小さな透明なポリ袋に金魚を入れて貰い、巾着のように手に持つ。
 ちゃぷんと音をたてる透明な水の中で、赤い金魚がゆらゆらと揺れていた。
「可愛いね」
 素直にそう思ったリクオだったが、その金魚の袋を見ている鴆の様子はあまり嬉しそうなものではなかった。
 そういえば、元々鴆は今日、縁日に来ることに乗り気ではなかったのだ。
 鴆の部屋に住み着いた金魚の影に、仲間をあげたいと思ったのはリクオの考えだったし、鴆はリクオがそう言うなら行こうと頷いてくれたのだ。――そもそも鴆は、余程のことが無い限り、リクオの言うことに逆らったりしないのだ。
 それがリクオ個人としては寂しくもあり、総大将としては嬉しくもあるのだが、どうも複雑な気持ちだった。
 自分が思っているほど、この縁日デートは楽しくないだろうか……とリクオが落ち込みかけたその時、鴆は笑みを浮かべてリクオに手を差し出したのだった。
「リクオ、その金魚はオレが持って行こう」
「え?」
 鴆が手を差し伸べたのは、リクオではなくて金魚の方だった。
「それを持ちたいんだ」
「も、もちろん、どうぞ!」
 リクオだって鴆と同じで、大好きな鴆の頼み事は、余程のことでない限り叶えてやるつもりだ。
 それが自分ではなかったことにちょっと残念に思いつつ、乞われるままに金魚の袋の紐を手渡す。
 ありがとうな、と礼を言った鴆は右手で紐を摘まみんだ。
 揺れるそれをすっと目線の高さまで持ち上げて、夜闇に明るい提灯の光に透かして眺めていた。
 柔らかな水を満たしたポリ袋は、暖かな橙色の光と風景を歪めて映し、その中でゆったりと泳ぐ金魚の存在もどこかに隠してしまいそうだったけれど、鴆はそれを眩しいものを見るように目を細め、確かに口の端を僅かだけ上げて笑みを浮かべているのだった。
 嬉しそうな鴆をみていると、リクオも嬉しくなる。
 今日は縁日に遊びに来て良かったなとリクオがしみじみと感じていると、リクオに見つめられていることに気づいた鴆が、ふっと視線をリクオへと戻した。
 鴆の瞳は血のような色だ。紅い。金魚と同じだ。
 水の中で揺れる金魚と、儚い命の中で揺蕩う『鴆』と。
「――綺麗だね」
 そう、思わず口をついて出た言葉に、鴆はこくんと頷いて応えたのだった。
「ああ――綺麗だな」
 しかし、リクオが綺麗だと思ったのは鴆の紅い瞳なのだが、そのことは言わないでおくことにしたのだった。




「おーい、蛙、金魚鉢は無かったか」
 薬鴆堂に戻った鴆が、蛙番頭を呼ぶ。
「また金魚ですか!」
 屋敷の奥からやってきた蛙番頭の様子を見ると、少しイライラしているようだった。きっと例の金魚の影を追い出すことに失敗したのだろう。
「リクオが取ってくれたんだ」
 目の前に金魚の入った袋をぶら下げられ、蛙番頭は苦い顔をしていたが、奴良組総大将が手ずから取ってきた金魚とあれば、無碍にはできない。
「さて……金魚鉢ですか……どこかにありましたかねぇ」
「無かったら、でかい薬瓶を持ってきてくれ。透明なやつだ」
 鴆がそう声をかける。なるほど、代用品ならばこの薬鴆堂には色々ありそうだった。
 リクオはついでとばかりに、自分が用意して欲しいものについても頼む。
「番頭さん、花瓶とか無い?小さいのでいいんだけど。一輪挿しとか……」
「花瓶ですか?はい、承知しました」
 リクオの要望は、金魚鉢よりもたやすいものだったのですぐに用意して貰うことが出来た。それは白磁の小さな花瓶だった。
 金魚鉢の方は、薬鴆堂の古参の付喪神がありかを知っていたので、頼んで用意をして貰う。数年前の火事で焼け残った倉にあったという。
 台所にあった汲み置きの水を金魚鉢に分けてもらい、リクオはポリ袋の中の小さな金魚をガラスの器の中にそっと放した。
 金魚は新しい住処に驚いたようにぐるぐる回って泳いでいたが、じきに静かになった。
 リクオは、丸い金魚鉢に入れた紅い金魚を、そのまま持って鴆の部屋に入る。
 昨日は鴆の部屋には入らなかったけれど、鴆の部屋を満たしている水のような気配は実際には水ではなかったので、息をすることに何の不自由も無かった。
 すると、昨日のように金魚の影はゆっくりと近寄ってくる。
 リクオと鴆が二人で居るというのに、金魚の影はやはり鴆が歩く側を、くるくると回るように泳いでいた。
「……ほら、仲間だよ」
 リクオはそっと金魚鉢を部屋の真ん中に置いた。
 二人でそれからゆっくり離れると、金魚の影は一緒に鴆に付いて来ようとしたが、――ふいっと方向を変え、新顔の金魚鉢へと近づいていった。
 しばらく近づいたり、離れたりを繰り返していたが、そのうち金魚鉢の傍らから離れないようになった。
 金魚鉢の中の縁日の金魚も、黒い影がちらちら動いていることに気づいたのか、その影の方向に頭を動かし上下しながら漂っている。
「……互いに気づいたな。相性は悪くないようだ」
 威嚇するようなこともなく、二匹の金魚は近くに寄るように泳いでいる。
「これ、仲良くなったら、金魚鉢を他の部屋に持っていけば、きっと影の方も付いて来てくれるよね」
「……そうだな」
 そうしたら鴆の部屋がこれ以上湿気ってしまう問題も解消出来るし、金魚の影がこれ以上鴆につきまとわないでくれるようにもなる。万々歳だ。これはリクオの小さな嫉妬心なのだ。
 両方の金魚の様子を見ていたリクオは、鴆に尋ねた。
「なんだか、随分姿が違うね」
 金魚の影は横に広がった鰭が美しかった。金魚掬いの金魚は、まだ小さいせいもあるけれど、そんなに鰭は大きくない。
「影の方は昔からよくいる種類だろう。昔は水を張った桶に金魚を泳がせ、上から眺めて鑑賞したんだ。だから、鰭が横に広がる種類が多く居たんだ」
「へぇ」
 リクオは、じゃあこっちの子はどっちの種類だろうかと、別に持ってきていた紙袋の中からあるものを取り出した。
「この子も置いておくよ」
 リクオが小さな一輪差しを金魚鉢の隣に置いた。
 そこには花ではなくて、――金魚が一匹。
 縁日から帰る途中に見つけた屋台で、リクオは土産を買っていった。いつも世話になっている蛙番頭に蜻蛉の形の飴細工を。そして、もう一つ。
 紅い飴で繊細に造られた金魚は、鰭が大きく広がり、どの方向から見ても美しい形をしていた。黒い着色がされた大きな目は、じっと空を見つめている。 
「リクオ、そいつはきっと飴は食わないぞ」
 鴆は、リクオがわざわざ買ってきた飴細工を、金魚の影達に与えてしまうことに困惑した様子を浮かべていた。
 さすがにリクオだとて、金魚の餌のつもりで買ってきたのではない。
「いいんだよ。だって、金魚ってたくさん一緒に泳いでいるでしょ。金魚掬いで一匹しか
取ってこれなかったから、オマケだよ」
 縁日の店で見つけた時、華やかな金魚を仲間に加えてやったのは、体よく追い出そうとしている金魚の影への詫びも込められていたのだが、それは鴆に言う必要は無いと思って黙っていた。




◇◇◇




 残暑が残る中、涼しくなった深夜にリクオは薬鴆堂へ訪れていた。
 妖怪変化したリクオは蛇型妖怪の蛇如呂に乗り、予告も無くふらりとやってきたのだ。
 人間の方のリクオは総大将の仕事に縛られて、意味もなく薬鴆堂に遊びに行くことはほとんどなかったが、妖怪の方のリクオは違う。
 行きたい時に行きたい場所へお邪魔するのが、ぬらりひょんの性なのだった。
 勝手知ったる薬鴆堂だ。リクオは誰の案内を受けることもなく、真っ直ぐに鴆の私室に向かう。
「よう、鴆」
 声をかけられた鴆は、主であるリクオの突然の訪問に少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに仕方ないなというように優しい笑みを浮かべたのだった。
「ったく、来る前に連絡くらい入れろっての。――おおい!誰か、酒を用意しろ!」
 鴆の一声で、薬鴆堂の付喪神がパタパタと足音をたてて、酒とつまみを持ってきてくれる。誰か、リクオの訪問に気づいていたのだろう、盃は二つ用意してあった。
 鴆に酒を注いで貰いながらリクオは、たわいの無い話をする。
 そんな中で話題に出したのは、先日の金魚の影のことだった。
「あの金魚どうした?」
 数日前まで鴆の部屋に居座っていた金魚の影は今どうしたのか。この、鴆の私室には居ないようだった。
 無事に部屋を移動出来たのだろうか思ったリクオだったが、鴆はゆっくりと答えたのだった。
「……ああ、幽世に行っちまったよ」
 鴆が言う幽世とは、『あの世』のことだ。
 そうか、鴆や蛙番頭が希望していたとおり、行くべき所に向かったのか。金魚の影がその道を選んだのであれば、リクオは何も言うことは無かった。
 ならば、縁日で掬ってきた金魚は取り残されたのかと不憫に思っていると、鴆は意外な話をしたのだった。
「縁日でリクオが取ってくれた奴も、……一緒に逝っちまったよ」
「死んだのか?」
「ああ」
 リクオは、縁日で金魚掬いの水槽に居た時の、あの金魚のゆったりした動きを思い出していた。確かに、あまり元気が良いような感じではなかった。
「そうか……あんまり元気無かったしな、残念だな」
 ぽつりとリクオがこぼすと、鴆ははっとしたような顔をして、数秒黙り込んだ。リクオに注ぐために持っていた酒の入った徳利を膳の上に置く。
「――リクオ、悪かった」
 鴆は眉を曇らせ、両手を拳にして膝に付くと、ぐっと頭を下げた。
 何を言い出すのかリクオが待っていると、意を決した鴆が口を開いた。
「……あの影の方の金魚、実は俺が招き入れたんだ」
「ふうん」
「驚かねぇのか」
「あんまり困った風じゃなかったしな」
 リクオは最初からおかしいと思っていたのだ。あの金魚の影が鴆の部屋に居座ってしまったという話を聞いた時、鴆は苦笑するだけだったからだ。




 鴆が金魚の影を見つけたのは、薬鴆堂の近くの竹林の外れだった。
 暑い日の日が昇る前、まだ薄暗い時刻に屋敷の近所を散策していた時のことだったという。
「自分が死んだことも気づかず、幽霊のままで干からびそうになっていたから」
 鴆は、地面に何やらうごめく物を見つけ、それからは水辺の妖怪の気配を感じた。
「たまたま、懐に盃があってな」
 それに持っていた水筒から水を注いで、金魚に向かって差し出した。
「入るか?って聞いたら、素直に入って来たんだが……」
 屋敷の者には内緒にして連れ帰った。
 最初は元気になるまで面倒を見てやろうと思っただけだったのだ。
「オレの部屋で、盃から飛び出して居着いちまってな。それから水の気配がだんだん大きくなっちまって……ああ、こりゃぁ、こいつの気持ちなんだなって」
「気持ち?」
「憤りやら、悲しみやら、寂しさってやつだろうな」
「……ふうん」
 そんな感情の『水』といえば、リクオが思いつくのは――涙しかない。あの部屋一杯に満たされていた冷ややかな気配は、金魚の寂しさだったのだろうか。
「それから、もう一つ謝らなければならねぇことがある」 
「どうした?」
 畏まった鴆が、まだ話していないことがあると神妙な顔つきをしていた。リクオも姿勢を正し、鴆の告白を聞くことにした。
 実は、と鴆が重い口を開いた。
「縁日の方のあの金魚、――死にそうなやつを取って貰ったんだ」
「え」
 その鴆の告白は、意外なものだった。
「たくさん居るなかで、死の気配が強い奴をお前に取って貰ったんだ」
 リクオは驚く顔を隠せなかった。つまりあの金魚は、リクオが掬ってこなくてもいずれ死んでいたということなのだ。
 しかし、リクオの記憶では、鴆は金魚の入った水の袋を眺めて、嬉しそうに微笑んでいたではないか。
 それを見つめて、リクオも幸せな気持ちになることが出来た。縁日で遊ぶことにもあまり縁の無かった鴆をこうやって連れ出してきて良かったと、鴆も楽しんでいるだろうと思っていたのだが。
 まさか、死にそうな金魚を見て、あんなに嬉しそうにしていたのだろうか?医者を生業とする鴆だというのに、あり得ない行動だった。
「リクオ、そんな顔をするんじゃねぇよ。死なせるために選んで取って貰ったんじゃねぇ。……一緒に旅立って貰うために引き取ったんだ」
「一緒に」
 では、金魚の影があの世に旅立ったというのは、――縁日の金魚が寿命を全うしたから、その魂と一緒にあの世に向かったのか。
「金魚の影の方に、死んだ金魚の供をさせるため、か」
 幸いにも、この部屋には金魚の影が纏っていた寂しい水の気配はもうなかった。
「ああ――やっぱ、一匹じゃぁ寂しいからな」
 リクオは鴆の気持ちにようやく気がついた。
 あのとき、透明な袋に入った金魚を見て眩しそうに眺めていたのは、――鴆自身を重ねていたのか。短命な性を持ち、おそらくリクオよりも先に死んでしまう自分自身を。
 一緒にあの世に旅立てる相手を金魚達に与えられるのが嬉しくて、そして金魚達が羨ましくて、あんなに綺麗な笑みを浮かべていたのだ。
 リクオは、鴆の道連れになりたかった。今もこれからも、そして最後の最後まで。
 しかし、奴良組総大将であるリクオは、組を率いる責任がある。愛しい鴆の死を追うことも出来ないし、そもそも鴆が許しはしない。鴆の望まないことをリクオがすることはない。
 でも、もしそんな約束が出来たら、鴆は嬉しそうで眩しそうな、あんな顔をしてくれるだろうか。




 鴆の部屋にはまだ、残暑の熱で溶けて尾鰭も何も全て金魚らしい形を失った飴細工が、一輪挿しに挿されたまま残されていた。
 ああ、あれはオレだ。リクオはそう、ぽつりと呟いたのだった。





2018/09/16 終

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(20180916)
ぬらりひょんの孫。「リクオ→鴆」(まだ付き合ってない)小説。全年齢。
完全新作です!
シリアス、夏の話です。

始めは鴆誕8/12までにアップしようと思っていたのですが、
遅くなりました。
でもリクオ誕9/23までには間に合ったからOKだよね!?