落霞紅 2.5

この話は、2003年発行の王子さまLv1本です。
在庫がなくなり、再版の予定が無いためここへ掲載しました。
既にご購入の方には申し訳ありませんが
ご了承くださいますよう、お願いいたします。

BY 月香

 はあはあと、息を切らして地を駆ける私の手の中には、小さな生き物がいた。
 緑色の体、大きな瞳、今まで誰も見たことのない生き物。
 それが私の実の弟だなんて、誰が信じてくれるのか分からないけれども。
 その頃の私は白い服を好んで着ていた。
 自分の名にちなんでいたのが最初の切っ掛けだったが、そのうちに自身の技と実力の素晴らしさを、依頼人にアピールするための道具になっていった。いくら自分の力に自信があっても、仕事の依頼が来なくては仕方がない。
 私は、服も汚さずに完璧に仕事をこなせるのだということを、周りに見せつけていたのだ。
 生まれ育った家を出た私は、モンスターハンターとして町のギルドから仕事を請け負って暮らしていた。
 自分を頼って家を出てきた弟を、養って(……こう言うと、この子は怒るのだが)やりたかったんだ、私は──。


     ◇◇◇◇◇


 長い年月の間、雨や風にもどんな災害にさえも形を変えない丘があると聞いて、白鳳はその地へと向かっていた。明らかに魔法の匂いのするそこは、モンスターハンターを生業とする自分にとって、絶好の狩り場になるに違いないと思ったのだ。
 魔法の影響を強く受けた土地には、突然変異のモンスターがよく出現する。それに、ついでに何か、価値のある宝も発見できるかもしれない。
 白鳳は主に町のギルドから仕事を請け負ってそれをこなし、依頼人から謝礼を貰っていたが、たまに自ら珍しいモンスターを捕らえに行くこともあった。そういった物に、多額の謝礼を支払う物好きな研究家達がいるのだ。
 土地の者に尋ねると、今まで何人もの冒険者がその丘にある洞窟へと向かい、帰ってこなかったという。
 そんな、ありがちな話を白鳳は眉唾だとは思わなかった。
 確かにそこには何か魔法の力を感じるのだ。
 同行していた弟も、不安気な表情を見せている。弟は生まれつき自分よりも、魔法に対して敏感だった。
「ねえ兄さん、何だか変な感じがするよ。……すごく強い力があるような、けれどもちょっとヤバイ気がするんだ」
 白鳳はそんな弟の言葉には耳を貸さなかった。
 いや、『すごく強い力』という部分だけ、拾って聞いていたのだ。
 ためらう弟を無理矢理納得させ、白鳳は丘へ向かうことにしたのだった。


 弟の言うとおり、その丘の洞窟には強い魔法がかけられていた。
 人一人が十分通れるような穴には、色々な種類のモンスターが出現した。だが、商品として価値が出そうな男の子型のモンスターは、なかなかめぼしいモノが出現しない。
 長剣を構えて先に立って歩く弟の後ろ姿を見つつ、白鳳は周囲にも注意を払いながら奥へと進んでいく。右手は腰の鞭をいつでも使えるように持ち手にかけ、左手には魔法の力で発光するライトを持っていた。
 弟の剣技も最近ではデス夫レベルのモンスターならば、十分対抗できる程に上達していた。だが行きは任せられても、帰りの不安は払拭しておかなければならない。
 白鳳は数十歩進んでは後ろを振り返り、帰り道を記憶していった。そんなに複雑に入り組んでいる洞窟では無かったが、用心するに越したことはない。
 そうして進む内に、白鳳はこの洞窟の特殊な状態に気づいた。
 崩れかかった岩肌から、小さなかけらが剥がれて地面に落ちると、少しの間のうちにフワリと持ち上がり──落ちて来た元の場所へ戻ったのだった。
 状態を保存する魔法がかけられているのだ。それはその一部だけでなく、洞窟のほぼ全体にかけられているように思えた。だから、この丘はどんな雨風にも長い間耐えていたのだろう。
 だが長い年月のため、その魔法もほころびが出ているようだった。ズッという鈍い音とともに、大きな岩が崩れ落ちてきた。ハッと白鳳が気付いたが、避けきれない。
 まずい!と思った瞬間に白鳳は何かの力で、思い切り後ろに突き飛ばされていた。
 それは自分の弟だった。危険を一瞬前に察知した弟は、兄を庇おうとしてその岩に自ら突っ込んで行ってしまったのだ。
 幸い岩は直撃したのでは無かったが、地面に倒れ込んだ弟の胸にぶつかったらしく、胸当てに守られていない下の部分の服が裂けていた。
「……だ、大丈夫だよ。ちょっと、ぶつかっただけ──」
 白鳳はその傷から赤い血が滲んでいるのを見てとり、急いで荷物から包帯と薬を取り出した。布にたっぷり薬草を塗り、傷に当てる。
 弟は、うっと呻いて目を細めた。
 出血の割に傷は浅いようで、白鳳はほっとして文字通り胸をなで下ろす。
 もう、ここからは良いから帰れと白鳳は言ったが、その言葉を弟は聞き入れなかった。
「大丈夫だって!ちょっとヒリヒリするけど、たいしたことないよ」
 でも、心配だからと言うと、弟は少し怒ったような口調で兄に向かってこう言ったのだ。
「心配してるのは、兄さんだけじゃない。僕だって、兄さんを心配してるんだ!一人より、二人の方がなんとかなるだろ?ね」
 そんな言い合いをしている間にも、岩が壁からパラリと剥がれ落ちている。そして、小さく軽い破片から、状態保存の魔法で少しずつ元の姿に戻っていくのだった。
 その時に、思いつけば良かった。
 確保された道の奥に、冒険者が求める宝などあるわけがないのだ。
 あるのは、生け贄のために用意された宝。
 冒険者を洞窟の奥底までおびき寄せる、囮だったのだ──。


 不自然なことに、ある時を境にぱったりとモンスターの出現が少なくなり、白鳳達は無意識の内に警戒を強めていた。
 この先に、何かがあるのかもしれない。
 怪我をしたというのに弟は、自分が先に立って歩くと言って譲らなかった。
 白鳳が今日その身にまとっているのは、真っ白な首元から足下まで覆う長い上着だった。
 普段から白鳳は白い服を良く好んで着ていたが、弟はそんな兄の姿がこの暗闇の中で、非常に目立つものだと分かっていた。だから自分は黒や茶色などの地味な色合いの服を着て前に立ち、兄の姿が前方から見えにくいようにしようとしていたのだった。
 少しでも、兄の役に立ちたいと思って。
 どのくらいの時間を歩いただろうか。白鳳が弟と辿り着いたその終着点は、ぱっと突然開けた空間だった。光り苔が自生しているのか、ほのかに明るい場所だ。
 咄嗟に白鳳は自分が前に出て、その空間に危険が無いかを確認しようとした。
 そして、辺りを伺うように見渡した二人の視線が上に向けられた時、目に飛び込んできたのは、頭上に居る一人の人間だった。
 いや、人間であるわけがない。
 人間のような姿形をして、固い岩盤に両腕と両足を捕らわれたように埋め込まれた者は、頭と胴体のみを空中に晒し、色素の無い瞳で白鳳達を冷ややかに見下ろしていた。
 まるで罪人が十字に貼り付けにされたような身動きの取れない姿なのに、そのモノは男とも女ともつかない端整な顔で、高見に居る神さながらに笑っている。
 白鳳は信じられない光景に、目をこすった。
 人型だが、男の子モンスター等ではない。
 ゆらり、と緑色に光るものが揺れた。白鳳達が光り苔だろうと思っていたものは、その正体の分からない存在の髪の毛だったのだ。
 洞窟の壁じゅうに張り巡らされている、ぼんやりと緑に光る髪の毛は、後ずさりしようとする二人の背後にまでザワリと迫っていた。
 確かに、領域を侵したのは白鳳とその弟の方だった。
 相手は岩に埋め込まれて、身動きなどできないモノなのに、白鳳は自分たちの方が圧倒されて蛇に睨まれた蛙のようだと感じた。
「……に、兄さんっ!」
 弟の不安気な声が聞こえたが、白鳳にもどうしようも無かった。
 視線を受けただけなのに、白鳳は相手と自分の間にある力の差を感じ取ってしまったのだ。なんとか弟を後ろに庇いながら、後退しようとするが、足が動かない。
 そして、こんな所で場違いな──花の、香りがした。
 

お前も宝を探しに来たのだな。だがここに在るのは我のみだ。何が在るか分からずに来たか。力も無き小さなヒトは哀れだ。お前達の力は我には敵わぬぞ。逃げようとは無駄なことだな。我らを倒したのはあヤツのみ。あの強大なヒトに封じられた。だが我等はまだ存在し続ける。我らは消えることはないのだ。永遠に在り続けることが強さ。封じられてどれだけになるか。我はヒトに慰められるを好む。裂かれ潰され喚き泣き叫ぶか。今までの者の多くは死んだぞ。お前の両足が踏む骨になった。その白いクズの固まりを見よ。骨の数を数えるのも良いがな。無為に時を過ごすのも飽きた。我は目を無くして随分久しい。前回の目の者は死んだだろう。ヒト一つには酷なことだった。二つのヒトに科すのも良いか。ヒトよ我に選ばれ光栄に思え。甘く匂う緑の髪の小さき者よ。血の匂いもまた良いものだな。かつてのヒトの味を思い出す。緑の髪を持ったお前にしよう。我の形代になり見てくるのだ。世の全てと我の七翼の痕跡を。うまく我と同調するだろうよ。我に似た色彩を持つヒトゆえ。新たな我の目となりて彷徨え。我の領域を侵した贖罪なのだ。男の子モンスターが居るのか。全ての種族を我に捧げるのだ。世の全てを巡って戻るのだな。我の分身はまだ世に在るはず。緑のヒトはヒトに戻してやる。我はヒトにも無慈悲ではない。


 そんな言葉が一気に白鳳の脳に注ぎ込まれた。と、同時に自分の中から何かが抜かれて行くような感覚もあった。
 それは、随分長い間だったようにも思えたが、ほんの一瞬の出来事だった。おそらく同じ言葉が弟の頭にも響いただろう。
 くらくらする頭を支え、目眩を振り払いながら白鳳は弟の姿を振り返った。
 だが、すぐ後ろに居たはずの弟が、見えない。
 緑の光に包まれた洞窟の中を、白鳳は紅い目を何度も瞬かせて、首を振って辺りを見渡す。今の一瞬の間に、弟を捕らわれてしまったかと白鳳は血の気の引く思いをした。
 やはり、連れて来るのではなかったのだ──!。
 怪我をした時に、一度戻っていれば良かったのかもしれない。だが、今更そんなことを考えても仕方がない。
 白鳳は、弟の長剣が地面に落ちているのを見つけた。
 何とか体を動かしそれを左手で拾い上げ、ぎりっと頭上の威圧的な存在を仰ぎ見た。
 すると、その存在よりも上の方に、緑の光の固まりがある。
 目を細めて見ると、それは緑に光る髪の毛の集合体で、大きな毬のように丸められていた。その、髪の毛の隙間から、茶色の、布が──。
 弟の、服の色だった。
「……スイ!!」
 白鳳はとっさに、右手から鞭を繰り出していた。
 あの中に、自分の弟が捕らわれているのか?
 だが、距離的には十分届くはずの鞭は、何かの力に阻まれてたどり着かない。弟を捕らえているモノに向けて、何度も鞭をふるった。
 だが掠りもせず、業を煮やした白鳳が頭上のモノに向けて鞭を振るうと、わずかな抵抗も邪魔だと感じたのだろう、とうとう白鳳も緑の髪に体を絡め取られてしまったのだった。その髪は、長く堅い蔓のような感触だった。
 ガランとその手から弟の長剣と、鞭が落ちた。
 睨みつける白鳳の目に、笑う顔が映る。
 真っ白な顔から、赤い細長い血の色をした舌が覗いていた。
「スイっ!!」
 何度も叫び、白鳳の声が掠れた。
どんなに手足に力をこめても、緑の髪から逃れられない。
 時の流れを教えてくれるのは、自らの呼吸と心臓の音のみだった。
 どれだけの間、叫んでいたかわからない。声が潰れて喉がギリギリと痛む頃、緑色の大きな毬から、ぽとりと何かが落ちて来た。
 それは茶色の固まりで、弟の着ていた服と傷の付いた胸当てだった。何かに溶かされたように、穴が開いてボロボロになっている。
 それに手を伸ばそうともがいた白鳳は、ようやく緑の髪の毛から解放された。前によろけるようにつんのめり、その落ちてきた固まりに駆け寄る。
「………っ!」
 がくりと膝を付き、恐る恐るそれを手に取って──頭上を睨み付けた。
 緑の大きな毬はいつの間にか解かれて姿を消し、白鳳の上に在るのは圧倒的な存在のみだった。
 弟の姿は、無い。
 今度は白鳳は、胸が熱くなり顔に血が上っていく感覚を覚えた。鼓動が早まり息が荒くなる。
 弟は、どこへ行ってしまったのだろうか──。
 白鳳はこの溶かされた服のせいで、不吉な考えを消すことができなかった。まさか、同じように……。
 頭上のモノに対する恐怖と怒りと、自分の不甲斐なさを責める気持ちで一杯だった。
 震える手を止めようとしても出来ず、軽くなった弟の残骸を胸に抱きしめる。
 と、まるで生き物のような柔らかな感触を感じて、ゆっくり胸元をのぞき込んだ。
 何か、か細く甲高い鳴き声が聞こえる。
 白鳳が腕の力を緩めると、その茶色のボロ布の間から、もぞりと小さな生き物が顔を出した。
 緑色の、両手にすっぽりと収まりそうな小さな生き物は、白鳳の胸にしがみつき、大きな黒い瞳で見つめている。そして白鳳が空気のような声で弟の名を呼ぶと、きゅーと鳴いた。
 その緑色は、洞窟に張り巡らされている髪の毛の色にも近く、弟の髪の色のようにも見えた。


 混乱する頭を必死に動かして、白鳳はその両手に弟を包み込んで走り出していた。信じられないけれど、信じたくないけれども、この緑の生き物は自分の弟なんだ。
 そして、アレが自分に伝えたことが全て真実で、自分がその意味を間違えていなければ、アレは自分と弟を生かして外へ出してくれるらしいのだ。
 石に封じられたアレは、動けない自らが世界を知るために、白鳳とその弟に試練を科したのだ。自分の領域を侵した代償と、二人の命の保証と引き替えに。
 おそらく外に仲間が存在するのだろう。弟の目を通してそれを見極めるために、弟はその体をアレのために使われたのだ。
 アレの言葉が本当ならば、世界中の男の子モンスターを捕らえて来れば、きっと弟を元の人間の姿に戻してくれる。種々多様な男の子モンスターを得ることで、新たなエネルギーを手に入れるつもりなのか。
 だがアレにとっては、生きているモノならば、どんなモノでも良いような言い方だった。男の子モンスターを選んだのは、白鳳の頭の中を覗いたからだろう。
 おそらく今までも多くの者に、色々な生物を持ってこさせたのだ。それは、試練を科された者が世界中余す所なくその目で見て、アレに情報を伝えさせるための手段の一つに過ぎないのかもしれない。
 一体どれだけの人間が、その試練を達成出来たのだろうか。
 そして、一体どれだけの男の子モンスターが、この世に存在するのか?
 花の香りがしていたのは、昔、同じように犠牲になった者が、アレに花を捧げるように言われたのかもしれない。
 この、小さな弟の尾の先に付いている場違いな可愛らしいも花は、その時の名残なのかもしれなかった。


 アレは『血の匂いがいい』と言っていた。
 まさか、その血の匂いに誘われて、弟がアレに選ばれてしまったのだろうか?
 確かに弟は怪我をしていた。ここへたどり着く途中、落石から私をかばったのだ。
 弟はいつも私が怪我をすると怒った。私の白い服が、赤く染まって痛々しいんだと。そんな私を見たくないと言った。
「兄さん、そんな傷作って…」
 私は大したことは無いと言ったが、弟は目をつり上げている。
 それでも、私が好んで着る白い衣服に赤い血が滲んでいる姿は、見ている方には辛い光景なんだと言った。
「兄さんは普段あんまり怪我とかしないじゃないか。だから、たまに血を流している姿を見ると、なんだか嫌なんだ……。だって、兄さんはいつでも真っ白な姿で、オレの所に帰ってくるから」
 誇らしげに目を輝かせて、そう言ってくれる弟が可愛いと思う。
「それに、いつも兄さんばっかりに任せっきりでさ、オレだって少しは気にしているんだ」
 だって、私はお前の兄さんだから、お前を守る義務があるんだ。
「兄さんは後ろにいてよ、今度はオレが先に行くからさ」
 そんな言葉を頼もしく思い、この子の気が済むのならと私は、弟を前に立たせたのだ。
 この子に対するわずかな優越感なんて、持つべきではなかったのだ。私が後ろに居るから大丈夫だなんて、あるわけなかった。
 このダンジョンに危険は少ない。そう思い込んでいた私が間違っていたのだ。
 私が、いつも傷を負わずに帰ってくるなんて、そんなの嘘だ。
 いつもの白い衣服の下は、更に白い包帯が巻かれている。
 私は自分の優秀さを宣伝するために、わざと白い服を身にまとい、ギルドへ戻る前に着替えて怪我が見えないようにしていた。強い自分を演じていたんだ。
 より多くの仕事を依頼されようと、自己満足の為にそう見せかけていただけだ。
 ──スイ、私はお前を、ずっと騙していたんだ。


 逃げる私の後ろから順に、洞窟は崩れていった。まるで、私達二人を追い立てるように。
 小さな破片は頭上から落ちてはくるけれど、命に関わりそうなほどの大きな岩は落ちてこない。
 殺すつもりはないのだと、使命を全うして来いと、そう言いたいのだろうか。
 弟をこんな姿にされ、命まで保証された自分は、なんて惨めなんだろう。
 いつか、この崩れ落ちた洞窟も、状態保存の魔法で元に戻る時がくるのだろう。アレが待つ、あの場所までの道が再び開く時がくるのだ。
 私は、男の子モンスターを集めて、再びここへ戻って来ることを誓った。アレに踊らされていると分かっていても、私にはそうするしかなかった。


 やっと外に飛び出した私は、それでも走ることを止めずに出来るだけ遠くへ逃げた。どこへ行ってもアレからの呪縛を断ち切ることはできないだろうけれども、逃げずにはいられなかったのだ。
 息を切らし、私は地面に膝を付いた。震える手の中に抱えていた弟を、草の上に解放する。
 弟の表情は良く分からないけれども、不安で無いわけがない。人間ではない別の生き物に姿を変えられてしまったのだ。
 小さな体、緑の体毛、大きな瞳と大きな耳。その尾は見た事のない花の形をしていた。
 言葉を交わすこともできず、私は弟をただただ見つめる事しかできなかった。
 だが弟は、ぴょこりと跳ねると私の腕に飛び移った。そして、逃げる時に落石で付けた腕の傷を、その小さな舌で清めようとしてくれている。 
「……スイ、そんなに舐めなくてもいいんだよ。大した傷じゃないんだ」
 それでもこの子は、私の腕の傷を心配げに見ている。本当に大した傷じゃない。真っ白だった服に、派手な血の跡は付いているけれども。
 お願いだから。心配しなくていんだよ。


「白鳳さん!いつの間にそんな傷を……!」
 青い髪の青年が、私の腕を取って包帯を巻こうとしてくれる。私はそれを見つめながら、何の痛みも感じていないことに気づいた。
「え?ああ、気づきませんでしたね」
 私はこんな怪我をしていただろうか。無頓着な私に、青年が怒ったような口調でたたみかける。
「気づかないじゃ、済みませんよ?」
 いいや、体の痛みなんて大したことはない。



 心配なのは、お前の方だ。
 そんな姿になって、そんな小さくなって、言葉も話せなくなって、ヒトとしての生を奪われて、ヒトとしての形も失って、お前は……。
「……スイ!」
 抱きしめてやりたい、いつものように。だけれども力を込めたら、潰れてしまいそうだ。
 きゅー、というスイの声が聞こえる。
 大きな瞳の緑色の体の、小さな私の、スイ。
 そんなに瞳をうるませて、心配そうな目で見ないでくれ。




「貸してください、今手当を……」
 青い髪の青年は、赤い血がしたたり落ちる私の腕を優しく持ち上げた。心配そうな瞳だった。
「本当に、痛くないんですよ。ほっといてください」
 私は青年の手を振り払った。
「白鳳さん……?」
 痛みなんて感じない。怪我なんてしていない。だから、スイは私を守る必要なんて無かったのに。





「だって兄さん、こんなに血が……」
 だから私は、赤い服を好んで着ているのだろう。赤い服は、血が出ても見え辛いから。
 そして、忌むべき敵の反対の色なんだと。
 それは、緑──弟の色。






「この子が弟なんです」
 貴方は、信じられないような顔を一瞬見せる。







「貴方は、可哀想な人だ……」
 私は、信じられないような顔を一瞬見せる。








「……貴方なんて、スイが元に戻れば、私にとっていらない人間になるんです」
「ほんの数日、俺を待つ気はありますか?……貴方が、俺を待っていてくれるというのなら……」


 そんな風に、私に希望を持たせないで欲しい。
 不安が無いと言えば嘘になる。昔、私達に呪いをかけたモノが、本当に弟を元の姿に戻してくれるのか──。
 私は、これで全ての男の子モンスターを集めたつもりだが、本当はまだまだ未知の男の子モンスターが居るのではないかと。
 ──これで良かったと、よく思うのだ。
 そうでなければスイが私のために、世界中の男の子モンスターを捕らえに旅に出ていただろう。
 無力な姿に変わり果てた私を守りつつ、たった一人で不安を抱え、孤独な旅をしていたかもしれないんだ。
 いっそ、私のことなんて見捨ててくれればいいのに……なんて考えながら、それでも決して弟も私を見捨てることなんてしないだろうと、思ってしまう。
 ──小さな私は、浅ましくも期待する。
 それよりは、ずっとマシだと思う。
「きっと、彼もそう思ってますよ」
 青い髪の青年が、私を見下ろしてそう言ってくれる。
「きっと、彼もそう思ってますよ」


 本当に?


     ◇◇◇◇◇


 ──そんな、昔の夢を見たのは、このセレストの体温の所為だと思う。
 目を細めるとすぐ隣、薄暗い中に彼の青い髪が見えた。
 つい先刻、眠っていたセレストの首を絞めようとした私を、彼は笑って許してくれた。許すというよりは、私が彼を殺すなんて出来ないと思っていたのだろう。
「ほんの数日、俺を待つ気はありますか?」
 そんなことを言い、答えられない私に返事はしなくても良いと言った。
 今だけ甘えさせてもらっても良いのだろうかとためらったが、私は再びセレストの隣で眠りについた。その体温を、生きている人間の感覚を味わいたくて。
 自分がルーキウス王国の王冠を盗んだ事件から、もう四年は経っていた。偶然見かけたセレストを懐かしく思い、ちょっかいを出したのは私の方が先だったが、まさかセレストがそれに乗ってくるとは思っていなかった。
 成り行きで体を合わせたあと、別れ難くなった私はもう少し彼と一緒に居たいと思ったのだ。それが昨日の朝のことだ。
 セレストは、王国の用事で隣国に来ていた。彼の帰り道と私の次の目的地が同じ方向だったので、私は彼につかの間の道連れを頼んだのだ。
 彼はその申し出を喜んで受けてくれて、私も嬉しいと感じていた。
 もうすぐ、全ての男の子モンスターが集められそうだと言うと、自分のことのように良かったと言ってくれた。
 明日には、別れなければならない。
 彼の主人が待つ国は、すぐ目と鼻の先だった。
 弟が呪いをかけられた直後は、私は良くあの夢を見た。繰り返し繰り返し、自分を責めるかのように。
 最近は本当に、この夢は見なかったのに。それにセレストまで、有り得ない思い出のように夢に出てくるなんて。
 いや、現実も混ざっている。恐らく私の希望と現実と不安が、ごちゃまぜになってしまったのだ。セレストはあんなこと言わなかったし、スイも、あんなこと言わなかったはずだ。
 きっと誰かの隣でその体温を感じながら眠ったのは、本当に久しぶりだから。心まで、誰かに許したくなってしまったのは、初めてのことじゃないのか?そんな自分の気の緩みが、あんな夢を見させたのだろう。
 セレストは、決して私を裏切らない。たとえ、私が彼を裏切ってもだ。
 私は事実、彼の首に手をかけて彼を殺してしまいたいと思ったが、セレストは私がそんなことをしないと信じている。
 そうだ、私は確かに手段は選ばない人間だけれども、人を死に追いやったこともあるけれど、セレストには、セレストを騙し討ちにするような人間だと思われたくない。
 そして彼は、そう思っていないのだ。
 嬉しいけれど、同時に悔しくもある。
 自分を理解してくれて──けれど、自分の全てを見透かされているようで、苦しい。
 こんなに誰かに執着したのは、多分初めてのことだった。弟は別だ。自分は、ずっとスイと共にいる。離れるなんて考えたことはない。
 セレストは、少し待ってくれと言った。
 でも私は、待たなくてもいいと思う。待っていなくても、彼は来るだろう。
 そして、彼が来なくても、それはそれで当然のことだと思うのだ。
 カナンとセレストの二人が羨ましかった。それは認めてもいい。二人、主従でありパートナーであり親友であり、家族でもあり……そんな関係を羨ましく思っていたんだ。
 だから、セレストがカナンを置いて、自分の所に来るなんて考えられない。
 私は良く嘘をつく。そのせいで弟に、余計な期待を抱かせてしまったけれども、これが私なのだから仕方がない。
 だから、私は嘘をつかれても平気だ。
 来なくても、いいんですよ──セレスト。
 セレストはようやく眠りに落ちたらしい。規則正しい寝息が聞こえる。
 ついさっきまで、彼の起きている気配がしていた。きっとまた、前科のある私が眠るまで見張っていたんだろう。知らない間にいなくならないように。
 窓のカーテンの隙間から、ぼんやりと朝日が差し込んできた。
 私は、セレストが目を覚まさないように、もう一度目を閉じた。


 緑の髪に紅い瞳の弟を、父は毒々しい色だと言って嫌っていたけれど、私は大好きだった。どちらも生きている色だから。力強く生い茂る緑の木々の色と、その下で生きる者達の血の色だったから。
 私達が似ているのは、この血のような瞳の色だけだった。今ではその面影さえ無いけれど。
 スイの目を通して見ているモノよ。時々、本当にお前に感謝する時がある。
 幼かったスイは私を誰にも渡さないと言い、私が他の人間と居ると酷く怒ったが、それは私だって同じなんだ。
 お前が初めてオンナノコという生き物を家に連れてきて、はにかみながら紹介してくれた時、私は理不尽な怒りを感じた。私も、お前を誰にもやりたくなかったんだ。
 もう、昔のことだけれども──。


     ◇◇◇◇◇



 朝日も高く上がったころ、私はセレストと共に宿を後にした。
 まだ眠気の取れないスイを肩に乗せ、私はセレストに背を向ける。この胸に微かに付けられた口づけの跡は、数日のうちに消えてしまうだろう。それで良いと思う。
 ここからルーキウス王国はそう遠くなかった。そして、私の目的地である隣国へと向かう分かれ道があるのだ。
 セレストとは、そこまでの限られた道連れだった。
 彼は必要以上に私に近づかなかった。今まで閨を共にした男達の多くは、一度でも付き合ってやるとまるで私を自分の物にしたかのような態度に出て、無理矢理私を側に置こうとした。私はそれが不快だった。
 が、彼はそんなことはしない。まるで、何事も無かったように私に穏やかな微笑みをくれるのだ。逆に少し寂しく思う。
「いよいよ、ですね」
 彼は私に向かって、そう言って笑った。
 それは、これで全ての男の子モンスターを集め終わると言った、私に向けられた言葉だった。
 私達兄弟のことを、まるで自分のことのように親身になって話を聞いてくれたことに、感謝したかった。いやその前に、私が弟のことを他人に話したことはほとんど無かったのだが。
 他人に話して、どうなるというのか。私は、同情を買うようなことは嫌いだった。
 それに、私は私達にかけられた呪いの原因も解く方法も知っている。ならば、この世に私と弟と、男の子モンスターさえ存在すれば良いのだ。
 他人のことなど、どうでもよい。
 それなのに、私はセレストに弟のことを話してしまった。適当な作り話でもして誤魔化せば良いものを。そして──彼は、私の話を嘘だとは言わなかった。
 軽い気持ちで言ったのだ。そんなことあるわけないと、冗談でしょうと言われることを少し期待していた。
 だけど、彼が笑わずに聞いてくれて、私は本当はホッとしたのだ。私の今までの生き方が笑い話なのか、嘘偽りの作り話なのかどうか。
 その、どちらでもなく受け止めてくれて、少し嬉しかった。
「……ええ、でもこれで本当に全てのモンスターを捕らえたことになるんでしょうか……」
 私がこれから言う言葉は、セレストにどう受け止められるのだろうか。
 何年も世界を放浪し続けた弱音?セレストの気を引くための誘い?
「もし、まだ捕らえていない種類があれば、私はまたこの子を連れて旅に出ることになるんでしょうね」
 肩に乗っているスイを撫でながら、自分に言い聞かせるように呟く。
 セレストの視線が、私をじっと捕らえている。私は、捕らわれているのか。
「また……私はこの子の前で、こんな酷いことを言ってしまった」
 まだ、旅は終わらないかもしれない。もしかして終わることが無い、無謀な挑戦をしているのかもしれないんだ、私は。
 セレストは、何と言ったら良いのか思いめぐらしているようだった。視線が私から外れた。
 それとも、私が言いたいことを全て吐き出してしまうまで、待っているのだろうか?
「これで良かったと、よく思うんですよ」
 私は、夢の中でセレストに語ったことを繰り返した。
「──そうでなければ、幼いスイが私のために、世界中の男の子モンスターを捕らえに旅に出ていたかもしれない。無力な私を守りつつ、たった一人で孤独な旅をしていたかもしれない。それよりは、ずっとマシだと思うんですよ」
 そんな本音を口にしてしまったのは、もう二度とセレストに会うことは無いと思っていたからかもしれない。


 弟がこんな姿になったあの時は知らなかったが、私達が洞窟の底で遭遇したアレはウルネリスの一翼だったのかもしれない。
 だから、あのレイブン、ユーリと名乗る翼が、自分に声をかけてきたのだろうか。私達にかけられた呪いに、自分達と同じ匂いを感じ取って──。
 だとすれば、スイの瞳を通して見ていたアレは、自分の翼の一つ『フォンティーヌ』が倒されたことを知ったはずだった。
 そのことが、弟の呪いを解除不可能なものにしてはいないだろうか?
 私は、翼に協力した。敵になるつもりは無かった。弟のためにも。
 ──セレストを傷つけることになっても、だ。
 私は、セレストとは行かない。慣れ合ってはいけない。セレストとその主人は、フォンティーヌを倒した張本人だ。それを見ていたアレが、セレストと親しくなった私達の呪いを、約束通り解いてくれるのか……?
 だから、もう二度と会うことはないだろう。
 自分の愚かな行動を精算するために、私は、弟以外の全てを捨てるのだ。


「きっと、スイ君もそう思ってますよ」
 セレストの言葉にハッとして、私は現実に引き戻された。
 彼は私を勇気づけようと、笑顔でそう言ってくれるのだ。
 私がこの先、更に長い間男の子モンスターを探して、世界を彷徨うことに対する労いではなく、自分に甘えて媚びる態度に対する否定の言葉でもない。
 セレストは、こんな私を弟は恨んでなんていないと言ってくれているのだ。
「兄にだけ負担をかけてしまって申し訳ないと、そう思っていますよ。白鳳さんだから、弟さんも全てを任せておけるんですよ」
 本当に、そう思ってくれているんだろうか?
 私のスイへの思いが、罪悪感と親愛の全てが、一方的なものではないのだろうか。
「大丈夫ですよ、白鳳さん」


 セレストは、夢の中と同じようなことを言うのだ。
 自分が考えていたようなことを言われ、自分が言って欲しいと願っていたことを言われて──私は泣きたくなって、しょうがなかった。





                                   《ende》

今更(2007年)アップ。
落霞紅1と2の間に入るお話です。
かなりオリジナルストーリーです……;;
落霞紅のシリーズは、これで全部。
ゲーム復活希望!!