Beautiful Name

BY 月香

「――落ち着きなさいよ」
 耳元でマスク越しに囁かれたその声は、明らかにコナンのもので、平次は再び驚愕する。
 今、目の前で倒れたのは間違いなく、高校生探偵工藤新一なのだ。では、ここにいる江戸川コナンは――誰?
「……私のことは後で説明するわ。いいから、貴方はあっちの方をどうにかして。工藤新一がこんなところに居るなんて、言いふらされたらどうするの?」
「あ、ああ……」
 目に見えない迫力に押されて、平次は言われるままに立ち上がる。何だか、その口調が女性のもののように思えたが確証はなかった。
 新一は、帝丹高校の文化祭で起きた殺人事件を見事解決した直後、意識を失って倒れたのだ。平次がそれを見て、慌てて抱き上げようとするのを、コナンが引き止めた。
 平次にとっては江戸川コナンは工藤新一である。が、今目の前にいる『江戸川コナン』は、どうやら工藤本人ではないらしいことだけは理解できた。
 それに、今の状況からしてそんな格好をしているということは、この『コナン』は新一の味方だということだ。倒れている新一のことは蘭にまかせて、平次はコナンの言うとおりに新一のフォローに回る。
 不思議なことに、新一がこんなにも派手に倒れたというのに、誰も――蘭と先生らしい若い男しか、近寄ってこない。皆、遠巻きに心配そうに見ているだけだ。
 出て行こうとしている人間がいないうちにと、平次は舞台の側に駆け寄ると、マイクを握った。
 そして、その場にいた者へと向けて、この事件のことを無闇に言いふらさないようにと警告する。平次は新一に例の組織の手が及ばないように、理由にはもっともらしいことを話した。
 だが、本当にそれだけで新一の存在を秘密にできるかという不安は、消すことはできなかった。

*****

 工藤新一が帝丹高校の見慣れた保健室で目を覚ましたのは、かれこれ一時間は前のことだったが、未だ自分の体に何が起こったのか信じられない顔をしていた。
 それもそうだろう。てっきり、哀の作った解毒剤の試作品の効き目が切れて、江戸川コナンの姿へ戻ると思っていたのだから。
 哀も、時間については保証できないとだけ言っていた。少なくとも、白乾児を飲んだ時よりは長い時間戻っていられるだろうと。
 保健室で横になっていた新一に、ジャージに着がえた蘭が心配そうに言った。
「新一、もう帰った方がいいんじゃないの?」
 今日の片付けには参加しなくてもいいから、と言う蘭の気遣いを新一は素直に受けることにする。
 事件は新一の無謀な登場により解決し、多少の混乱はあるものの、文化祭の後片付けも始まっている。
「そうか?じゃあ、もう帰るかな」
 ベッドから起き上がると、まだなんとなく体がだるかった。
「ほな、オレが送ってったるで。コイツ、また倒れたらアカンからなぁ」
 ずっと側に付いていた平次がそう申し出ると、蘭は嬉しそうに頭を下げる。服部君なら安心よね、と。
 内心、新一も安心していた。いつまたさっきのような発作が起きるとも限らなかったので、平次に家まで付いて来て欲しいと思っていたのだ。口に出したことはないが、何か起きた時に、これ程頼りにできる人間はそうはいない。
「じゃあ、服部君お願いね。ちゃんと、ベッドに寝かせてね」
 本当は自分が付き添っていたいのだろう。随分長い間、姿をくらましていた新一がやっと帰って来たのだ。聞きたいこともたくさんあるはずだ。
 平次の隣では、和葉が腕時計を睨んでいる。
「アタシも行きたいんやけど、帰りの新幹線の切符、取ってしもうたし――」
 和葉は平次が東京に来ないと言うものだから、自分ひとり分の往復の指定券をすでに購入していたのだ。
 指定券の無い平次は、和葉に手を振って早く帰れと促す。
「和葉は、帰れや。オレは後から行くわ」
 自由席でもいいから平次と一緒に帰ると主張する和葉は、折角の指定券がもったいないと言う平次に説得されて、しぶしぶ大阪へと戻ることになった。
「平次、明日、学校さぼったらアカンで!」
 と、叫びながら。
「――読まれてるぜ、お前」
 ニヤニヤと笑いながら、そう呟いたのは新一だった。
 平次は新一の口調がいつも通りなことに、ほっと胸を撫で下ろした。


「あ、あれ……?は――じゃなくて、コナン、お前帰ったんじゃなかったのか?」
 平次と一緒に玄関へと向かった新一が、目ざとく見つけたのは、とうに帰っていたと思っていたコナンと、その保護者である小五郎だった。
「こいつが、お前の様子が気になるって言って聞かなくてな。なんだ、平気そうじゃないか。――ほら、コナン帰るぞ」
 コナンの腕を引っ張り、小五郎は帰りを促したがコナンは首を振って嫌がった。
「ねえ、ボク、もうちょっと新一兄ちゃんと居たいな。だって久しぶりだし」
「何言ってんだ。お前、怪我人なんだぞ。風邪も引いてるだろうが。それに、……オレだって暇じゃないしよ」
 何故、小五郎が帰りたがっているのかと言えば、沖野ヨーコの出演する歌番組がテレビで放映されるのだということを、新一は知っていた。
 新一は自分に寄り添うように立っていた平次の背中を、小五郎に見えないように軽く叩いた。それが新一の合図だと理解した平次は、いつもの遠慮無さで小五郎に言った。
「なあおっちゃん、オレが事務所まで送っていったるで。せやから、コイツちょお貸してや」
 小五郎はいつも、平次のことを目障りな大阪のガキくらいにしか思っていなかったが、こういうことを任せられるくらいには信頼しているらしい。
「んー?あんま、遅くなるなよ」
 あっさりとコナンを平次に任せ、いそいそと帰る小五郎に、コナンは手を大きく振った。
「うん、じゃあね、おじさん」
 小五郎の姿が駐車場へと消え、その車が校門を出て行ったのを見届けると、その後に続くように学校を出た。まだ、数台のパトカーが止まっていて、新一の顔を見た警官の中には、敬礼して挨拶してくる者もいた。
「流石は、日本警察の救世主やなぁ」
 変なことに感心している平次に、警官の挨拶に適当に返事をしながら、新一は「お前も大阪に帰ればこんなんだろ?」とそっけなく言い返した。
 コナンは先ほどまでの愛らしさはどこへ行ったのか、無愛想な表情で黙々と歩いて付いてくる。
 そして三人は不自然に見えないよう、他愛のない話をしている振りをしながら、工藤邸へ――ではなく、その隣の阿笠宅へと向かった。

*****

 中へ入ると、博士が三人を迎えてくれた。にこにこしたその様子から、客が一人増えていることは、さほど問題ではないらしい。
「いやあ、びっくりしたわ。工藤が二人おるんやもん」
 平次はリビングのソファに腰を降ろすと、脱力したように息を吐いた。
「二人なんて、いるわけないだろ」
 冷たい新一の言葉も、平次にとっては新鮮だ。まさか、新一が元に戻っているとは思っていなかったから、今こうして高校生の工藤新一と話ができるということに、感動していた。
「せやかて、オレ、知らんかったから」
 さっきまでのコナンは、灰原哀の変装だったと知って、平次はほっと胸を撫で下ろした。
薬で人間が小さくなることもあるのだ。本当に最初、二人を見た時、新一が分裂したのではないかと思ってしまったからだ。
「じゃあ、このマスク結構使えるのね。工藤君のお友達が気づかないんだもの。博士に感謝しなくっちゃね」
 哀はコナンの髪型をしたかつらを取り、さっぱりしたように首を振った。
 平次が哀に会うのは今日が初めてだった。
 話だけは、新一との話題に何度か上っていたので、彼女が組織の元一員で、例の薬を作った人物だということは聞いていた。生意気な女だとも新一は言っていたが、美人だという話は聞いていない。
 博士は、コナン――灰原哀の外した、マスクの形をした変声機のチェックをしてくれている。
 かつらは取ったものの、哀はコナンの服装のままだった。これからしばらくの間、その姿で毛利家に居候しなければならない。
 哀には、毛利家の人々を騙す自信がある。声さえ気をつければ大丈夫だろう。
 あの迷探偵『毛利小五郎』が、そんな細かいことに気づくとは思えないし、蘭は帰って来た工藤新一に気を取られていることだろう。
「それにしても、工藤君。貴方、毛利さんに話をして用事を済ませるだけじゃなかったの?あんな、目立つマネをして、組織にばれたらどうするつもり?どこに情報網があるか分からないんだから」
 哀は二人の客のためにコーヒーを入れながらも、畳み掛けるように新一を責める言葉は止めない。
「本当は、今日、学校から帰って来る時も、顔でも隠して来た方が良かったのよ。これから、家の方へ帰るんでしょうけど、電気は付けたりしないでね。あの家に、工藤新一が帰ってるだなんて、組織に知れたら面倒だわ」
 見た目は小学生でも、中身は大人だ。あの、工藤新一がやり込まれている姿は中々見れるものではないだろう。平次は面白そうにその様子を眺める。
「だから、悪かったって言ってるだろ?何だかさ、事件があると口をはさまないと気が済まないんだよなぁ」
 頭を抑えて新一は苦笑いをした。
「ああ、その気持ちは良お分かるで。オレもそうやったもん」
 平次はうんうんと相槌を打った。
「あら、貴方も今日のこと、失敗したと思ってるの?」
 思わず哀は、今日の平次の変装を思い出したが、顔に白い粉を塗って髪型を変えただけの姿は、変装というよりも仮装だったのではないかと思う。
「オレ、今日のは格好だけ蘭ちゃんに見せて、帰るつもりやったんやで。やっぱ、声まで似せられへんからなぁ」
 腕組みをして、首を捻る平次に新一と哀が一瞬固まった。
 そして同時に現実に戻り――。

『――声、だけ?』

 新一と哀の声が珍しくハモる。
「お前、本当に西の名探偵なのか?――あんな変装、誰だって気がつくぜ。それに、何で工藤新一が関西弁しゃべるんだよ?」
 呆れ顔の新一と哀の態度は、平次の気に障ったらしい。
 がばっと立ち上がると眉を吊り上げて、平次は二人の顔を交互に見比べる。
「オレの変装のどこがアカンねん!」
 アレが服部の目から見た『工藤新一』なのかと思うと、新一は溜息を付くしかない。
「それ、本気で言ってるの?本当にミステリアスな人ね」
 哀は、服部平次と今日初めて会ったのだが、こんなに変――もとい、面白い人だとは思っていなかった。話だけなら、よく新一が哀にしていたのだが。
 クスクスと楽しそうに笑う哀に、平次は顔を向け直した。
「へえ、アンタ今日初めて笑ったやんか。その方がかわええで」
 そう突然言われて、哀は驚いて目を見開く。特に視線は感じなかったが、この男は自分をずっと見ていたのだろうか?
 哀は、平次の感心は、元に戻った新一に向けられているとばかり思っていた。
 いつのまにかその新一は、部屋を出て行ってしまったようだ。
 

 二人きりとなり、哀はコーヒーカップを片手に、平次の向かい側に腰を降ろす。
「なあ、アンタの名前なんて言うんや?」
「――『灰原哀』よ」
 質問に素っ気無く答える哀に、平次は大げさに手を振ってみせた。
「ちゃうちゃう、そうやのうて、本当の名前の方や」
 どうせ偽名なんやろ?と言われ、哀は言い返した。
「貴方には、言う必要ないと思うけど?それに、余計なことは知らない方がいいわよ。あんな組織とは、極力関係を持たない方がいいわ」
 関わったモノは全て消去する。それがあの組織のやり方だ。
 哀は、自分の所為で巻き込んでしまった人達に、常に罪悪感を感じていた。博士を始め、少年探偵団の皆――哀の行動一つで、組織に狙われることになるかもしれないのだ。
 だから不可抗力とはいえ、新一が平次を巻き込んでしまっていたことに、哀は申し訳なく思う。
 そんな様子の哀にはお構いなしに、平次は哀の本名を聞き出しにかかる。
「アンタは今は無関係なんやろ。せやったら、ええやんか。それに――オレが何か関係ある情報手に入れた時に、アンタの名前わかっとった方が何かと都合ええんやないの?」
「情報を、手に入れた時?――貴方まで、首を突っ込まなくていいのよ。関わる人間は少ない方がいいわ。とばっちりを受けるわよ」
 大きな瞳できつく睨まれたが、平次はそんなこと全く気になっていないようだ。
 にこにこと笑い、礼まで言う。
「心配してくれてんの?ありがとな。けど、今更、オレは無関係にはならんやろ。オレ、工藤の親友やって言いふらしとるし」
 それだけで、もう、組織に狙われる要因になるのだということを、平次は知っている。
 だから良いのだと言う平次に、哀は無表情に言い捨てた。
「心配じゃないわよ。面倒だから、これ以上、無関係な人間を巻き込まないようにしてるだけ」
「せやから、もう、無関係やあらへんから、迷惑かけたかてええっちゅうとるんや」
「――自業自得よ」
「分かっとるがな、それくらい。で、アンタの名前、何ちゅうの?」
 話が反れたと思ったのだが、未だ、平次の狙いは哀の本当の名前にあるらしい。
 なあなあとテーブルを超えて、迫って来る。顔が十数センチまで近づいて来た所で、哀は平次の肩を押し戻した。
 一応、自分は年頃の女なのだが、それも分かっていて遠慮なく迫ってくる平次を、哀は呆れ顔で振り払うしかない。
「しつこいわね」
「工藤はな、オレに名前呼ばれると安心するて言うたんや」


 平次は新一が以前、ぽつりともらした言葉を思い出していた。
 コナンこと新一は、所かまわず『工藤』と呼ぶ服部に、今度そう呼んだら絶交だとまで言いつけた。が、今度はぎこちなくなった平次の態度に、新一の方が折れた形になってしまったのだ。
(――その名前で呼ばれるのがイヤなんじゃねーよ。逆だよ、お前に『工藤』なんて話しかけられると、自分がやっぱり『工藤新一』なんだなって、確認できて、安心する。)
 蘭や他の事情を知らない人間の前で言われると困るのだ――と、そう続けて言われたことは、珍しい新一の本音を聞けた嬉しさの所為で、あまり平次の頭には残っていないらしい。


「アンタは、誰か、本当の名前で呼んでくれるヤツおらんの?」
 博士は『哀君』言うとったなぁと、平次はさっきまでの会話を思い出してみる。新一は『灰原』と呼んでいた。
「必要ないわ」
 冷たく断られても平次はめげることは無かった
「そんなこと、あらへんやろ。いくら、身を隠さなアカン言うても、本当の自分を否定したらアカンで。なあ、せやからオレが自分のこと、名前で呼んだるで?なあ、名前、教えてや」
 平次は哀の本名を聞き出すことに、意地になっているらしい。
 哀は、平次の様子がうっとおしかったのと、新一の自称親友になら言ってもかまわないだろうかと考えた。それに、さっき平次が言っていた「何か、手がかりがあった時、名前が分かっていた方が情報を得やすいのではないか」ということも、もっともだと思ったのだ。
「そうね――貴方だったら……」
「オレやったら?」
 哀が話すことを止めて、自分の様子をうかがっていることに平次は気付いた。
 何を言うつもりかとドキドキしながら待っていると、哀はふふっと笑って平次を見つめた。
「貴方だったら、滅多に会わないから、名前を呼ばれることも無いでしょうね」
「――」
からかわれているのだと平次が気付いたのは、一瞬後だった。
「――宮野志保よ」
 哀にやっとで名前を教えてもらい、『宮野』と言うんは口が回らんなぁと、平次は一人で何やらブツブツ呟いていたが、意を決したようにポンと手を打った。
「『志保ちゃん』?」
 軽く小首を傾げて平次は哀を伺った。その仕草そのものはかわいらしいとは思うが、高校2年の男子がすることではないと哀は思う。
「『ちゃん』はいらないわ」
 嫌そうな顔と声で、哀は平次の呼び方にNGを出した。平次はうーんと唸り、改めて言い直す。
「ほな――『志保』」
 途端、哀の心臓が高鳴った。
 そんな風に自分を呼んぶ人は、ごく限られていたから。
 例えば、――家族、とか。
「……やめて。その名前で呼ぶのは」
 お姉ちゃんのこと、思い出してしまうから――とは、今日初対面の男に言うことではないだろうと、ただ否定の言葉だけを告げる。
「へ?『ちゃん』付けやなかったら、ええんやないの?」
「気が変わったの。やめて」
 テーブルに下ろしたコーヒーカップが、ガチャリと音をたてた。
 哀を組織から抜けさせるために銀行強盗に加担し、組織と取引しようとして失敗し、殺された姉。
 両親共にもう亡くなっていたから、哀――志保にとってたった一人の肉親だった。
 組織で研究を続けていたのは、幼い頃から自分がいた場所だからでもあったし、研究に対する好奇心の所為でもあった。が、一番の気がかりは、外の世界で普通に暮らしている姉――明美だった。
 姉が今まで通り、普通に暮らしていけるように願って、自分は研究を続けていたのだ。直に言われなくても、姉が人質に取られているということは見当がついていた。
 まさか姉の方も、自分のために組織の悪事に加担していたなんて知らなかったのだ。
 守りたかったのは、自分の方だったというのに。
 もっと早くに知っていれば、そんなことしなくてもいいのだと、泣いてでも止めさせたのに。姉の無事のためなら、自分の心を押し殺してでも、どんな研究でも続けることができたのだから。例え、人殺しの薬だったとしても。
「せやったら、しゃーないから――『哀』ちゃん」
 平次の能天気な声で、哀は我に返った。
 見ると、何が楽しいのか満面の笑みを浮かべて、平次が自分を見ている。
「『ちゃん』付けはやめてって言ったでしょ」
「ほな――『哀』」
 途端、真面目な顔と声でそう言った平次に、哀は目を細める。
「――いやがらせ?」
「そう聞こえるんか?心外やなぁ。ほんなら『灰原』しか残ってへんやろ」
「それでいいわよ」
 本当は平次は、哀を本名で呼んでやりたかったのだが、断られてしまった。ならばせめて、フレンドリィな呼び方をしようと考えたというのに、それもお気に召さないらしい。 平次は少し残念に思ったが、すぐに思い直して哀を正面から見つめる。
「――ふーん。まあ、ええか。自分で付けた名前やもんなぁ。ある意味、本当の名前かもしれんし」
「本当の、名前?」
「自分で考えたんやろ?名前っちゅうんは、さすがに自分で付けられへんしな、生まれたての赤ん坊がしゃべれるわけやないし。『シェリー』っちゅうんも、組織で付けたんやろ?そしたら、自分で考えて付けた『灰原哀』が本当の自分みたいやんか」
 平次の言うことは、さっきまで話していたことと、180度変わっていた。
 本当の名前が大事なのだと散々言い、哀から本当の名前を聞き出したというのに、今度は苦し紛れに付けた偽名の方が、本当の名前だと言う。
 けれど哀はなんとなく、さっきまでの話も、今の『これが本当の名前だ』という話も、平次にとっては嘘なんてかけらも入っていないのだろうと思った。

「今までのやのうて、これからの名前、な?」

 そう平次に笑いかけられて、哀は自分の気が軽くなったように感じた。
「――これから、の?」
 組織を抜けて来た者の、名前。
 小さくなった工藤新一のために、解毒剤を作ろうとしている者の、名前。
 哀は自分が嫌いだった。本当の自分ではない、こんな子供の姿を――。
 でも、哀――志保が本当の姿を見ていて欲しかった、たった一人の姉はもういないのだ。
 本当は死ぬつもりだったのに、偶然にも、毒を飲まされた新一と同じ症状が現れたこの体。
 自分を本当の家族のように思ってくれる博士や、今は憎い組織を追い求めている彼、そして目の前で自分に向かって笑いかけている彼は、この自分しか知らない。これからの、私しか――。
「考える時間があって良かったなぁ。工藤みたく、『江戸川コナン』なんて変な名前付けてしまわんで、ほんま良かったやんか」
 物思いに耽り、深刻な表情の哀に向かって、平次は冗談なのかどうか分からないようなことを言う。
 そうやって話を横に逸らすのも、平次なりの気の使い方なのかもしれないと思い、哀は自然に笑みがこぼれて来た自分に気付いた。


「――変な名前で悪かったな、服部」
 いつの間にか戻って来ていた新一が、平次の真後ろに立っていた。
 新一は、とっさに付けた『江戸川コナン』の名前を、やっぱり自分でも気にしていたらしい。眉がつり上がり、顔が少し赤い。
「く、工藤。あ、いや、悪気があって言うたわけでは――」
 ばっと後ろを振り向き、冷や汗を流しながら慌てて言い分けをする平次を、哀は面白そうに見つめていた。
「当たり前だ。悪気があったら許さねぇ。第一、お前の妙な変装より、ずっとマシだろうが!大体なぁ――」
 先程、灰原にやり込まれていた分を取り戻そうというのか、新一は言いたい放題文句を並べ立てる。平次はそれをなだめようとしたが、新一の勢いに押されていた。
「哀君、調子は良いようじゃよ」
 博士が奥の扉から顔を出した。手には、変声機付きの風邪用マスクが握られている。
「ありがとう、博士。――私、そろそろ毛利さんの家に行かないと。子供がいつまでも遊びに出ててる時間じゃないでしょう?」
「おお、それならワシが送って行こう」
 博士が哀に提案すると、哀は少し考えた後、やはり送ってもらうことにする。
「――ええ、お願いするわ」
 博士が車のカギを取りに、再び部屋の向こうへと姿を消した。哀が身支度を整えていると、平次が哀に駆け寄って来る。
「なあ、オレが送って行ったるで?毛利のおっちゃんと約束したし――」
 そう申し出た平次を、哀は丁重にお断りした。
「結構よ。まだ工藤君と遊んでたら?」
 平次は新一の小言攻撃から逃れたかったのだが、哀はそんな平次を分かっていて、まだここに居れば良いと言う。
「いや、その――」
「服部、まさか逃げるんじゃないよな?」
 フフフと笑いながら平次の肩に手を置く新一は、迫力があった。コナンでいた時は目線の所為もあって余り気にしていなかったが、流石に色々と修羅場を潜り抜けて来ただけのことはある。平次が僅かずつ後ずさりを始めている。
 新一は、今の状態を楽しんでいるようだった。平次と同じ視線で話をするのは、初対面のあの時以来だ。からかわれている方は、たまったものではない。
 哀は、新一の凄みのある視線に固まっている平次を見て、蛇に睨まれたカエルの様ね――と、くすりと笑った。
「ごゆっくりどうぞ、服部君」
「そんな、オレを見捨てるんか?灰原の姉ちゃん〜〜」
 と、すがるように自分を呼ぶ平次。
「灰原。後、よろしくな!」
 と、片手でしっかりと平次の肩を掴みながら、もう片方の手を自分に振ってくる新一。
「そろそろ行こうかね、哀君」
 と、自分の背を押してくれる博士。
「――じゃあ、ね」
 そう言って手を振り笑った哀の笑顔は、残念ながら誰も見ていなかったが、今まで姉にしか見せたことがないくらい楽しそうなもので、皆がこうして呼んでくれる、『灰原哀』も悪くないかもしれないと、哀――宮野志保は漠然と感じていた。


                                《ende》

この話は、2000年夏発行の
『シェリーと夏と僕』掲載の作品です。
本の在庫が無くなって随分たつので、
載っけてもいいかなと思って、
HPにアップしました。
哀×平を狙ったんですが、どうですかね?